・・・すると寺の本堂に、意外にも左近と平太郎との俗名を記した位牌があった。喜三郎は仏事が終ってから、何気ない風を装って、所化にその位牌の由縁を尋ねた。ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人が、月に二度の命日には必ず回向・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そこで女はいら立たしいながらも、本堂一ぱいにつめかけた大勢の善男善女に交って、日錚和尚の説教に上の空の耳を貸していました。――と云うよりも実際は、その説教が終るのを待っていたのに過ぎないのです。「所が和尚はその日もまた、蓮華夫人が五百人・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・ 斎場は、小学校の教室とお寺の本堂とを、一つにしたような建築である。丸い柱や、両方のガラス窓が、はなはだみすぼらしい。正面には一段高い所があって、その上に朱塗の曲禄が三つすえてある。それが、その下に、一面に並べてある安直な椅子と、妙な対・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・ 本堂正面の階に、斜めに腰掛けて六部一人、頭より高く笈をさし置きて、寺より出せしなるべし。その廚の方には人の気勢だになきを、日の色白く、梁の黒き中に、渠ただ一人渋茶のみて、打憩ろうていたりけり。 その、もの静に、謹みたる状して俯向く・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面に二三本燃え残った蝋燭の、横曇りした、七星の数の切れたように、たよりない明に幽に映った。 びしゃびしゃ…・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 池がある、この毛越寺へ詣でた時も、本堂わきの事務所と言った処に、小机を囲んで、僧とは見えない、鼠だの、茶だの、無地の袴はいた、閑らしいのが三人控えたのを見ると、その中に火鉢はないか、赫と火の気の立つ……とそう思って差覗いたほどであった・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の巨刹の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ三時が間に市の約全部を焼払った。 烟は風よりも疾く、火は鳥よりも迅く飛んだ。 人畜の死傷少からず。 火事の最中、・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・ 家の子村の妙泉寺はこの界隈に名高き寺ながら、今は仁王門と本堂のみに、昔のおもかげを残して境内は塵を払う人もない。ことに本堂は屋根の中ほど脱落して屋根地の竹が見えてる。二人が門へはいった時、省作はまだ二人の来たのも気づかず、しきりに本堂・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・円福寺の椿岳の画 椿岳の大作ともいうべきは牛込の円福寺の本堂の格天井の蟠龍の図である。円福寺というは紅葉の旧棲たる横寺町の、本との芸術座の直ぐ傍の日蓮宗の寺である。この寺の先々住の日照というが椿岳の岳母榎本氏の出であったので、俗縁の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ひょいと中を覗くと、それが本堂まで続いていたので、何と派手な葬式だが、いったいどこの何家の葬式かと、訊いてみると、「――阿呆らしい。葬式とちがいまっせ。今日はあんた、灸の日だんがな」 と、嗤われた。が、丹造は苦笑もせず、そして、だん・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫