・・・が、伊藤八兵衛の智嚢として円転滑脱な才気を存分に振ったにしろ、根が町人よりは長袖を望んだ風流人肌で、算盤を持つのが本領でなかったから、維新の変革で油会所を閉じると同時に伊藤と手を分ち、淡島屋をも去って全く新らしい生活に入った。これからが満幅・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ が、私の思うままを有体にいうと、純文芸は鴎外の本領ではない。劇作家または小説家としては縦令第二流を下らないでも第一流の巨匠でなかった事を肯て直言する。何事にも率先して立派なお手本を見せてくれた開拓者ではあったが、決して大成した作家では・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ もし、それが詩人であったなら、また、他の芸術家であったなら、いずれでもいゝ固く自己の本領を守って、犯されずに、存在することが、力であるのだ。即ち、それが正義であるのだ。その存在は、たとえ、小さな火であっても、いつか人生の核心を焼きつく・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・という、仏陀の予言と、化導の真意をあらわす、彼の本領の宣言書である。彼の不屈の精神はこの磽こうかくの荒野にあっても、なお法華経の行者、祖国の護持者としての使命とほこりとを失わなかった。 佐渡の配所にあること二年半にして、文永十一年三月日・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ つまり私という老人は、何一つ見るべきところが無い、それが私の本領、などと言って居直って威張り得る筋合いの事では決してございませんが、そのような男が、この地方の教育会のお歴々に向って、いったい何を講演したらよろしいのでありましょうか。残・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・そろそろ駄犬の本領を発揮してきた。いやしい。もともと、この犬は練兵場の隅に捨てられてあったものにちがいない。私のあの散歩の帰途、私にまつわりつくようにしてついてきて、その時は、見るかげもなく痩せこけて、毛も抜けていてお尻の部分は、ほとんど全・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・という、いよいよ降参人の降参人たる本領を発揮せざるを得ざるに至った、ああ悲夫、 乗って見たまえとはすでに知己の語にあらず、その昔本国にあって時めきし時代より天涯万里孤城落日資金窮乏の今日に至るまで人の乗るのを見た事はあるが自分が乗って見・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・これに反して自然主義から云えば道義の念に訴えて芸術上の成功を収めるのが本領でないから、作中にはずいぶん汚ない事も出て来る、鼻持のならない事も書いてある。けれどもそれが道心を沈滞せしめて向下堕落の傾向を助長する結果を生ずるならばそれは作家か読・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。 私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といっ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ ニイチェはその哲学詩人としての本領の外に、純粋の詩人としての抒情詩を書いて居る。しかし抒情詩人としてのニイチェには、僕としてあまり崇敬できない点がある。ゲーテも言ふ如く、詩人に哲学する精神は必要だが、詩に哲学を語ることは望ましくな・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
出典:青空文庫