・・・陳はさっきからたった一人、夜と共に強くなった松脂のにおいを嗅ぎながら、こう云う寂しい闇の中に、注意深い歩みを運んでいた。 その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かして見た。それは彼の家の煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・学士は弓を入れた袋や、弓掛、松脂の類を入れた鞄を提げた。古い城址の周囲だけに、二人が添うて行く石垣の上の桑畠も往昔は厳しい屋敷のあったという跡だ。鉄道のために種々に変えられた、砂や石の盛り上った地勢が二人の眼にあった。 馬に乗った医者が・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・そうして、その引き出しの中には、もぐさや松脂の火打ち石や、それから栓抜きのねじや何に使ったかわからぬ小さな鈴などがだらしもなく雑居している光景が実にありありと眼前に思い浮かべられる。松脂は痰の薬だと言って祖母が時々飲んでいたのである。 ・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・小皿の上に三片ばかり赤味がかった松脂見たようなもののあるのはである。千住の名産寒鮒の雀焼に川海老の串焼と今戸名物の甘い甘い柚味噌は、お茶漬の時お妾が大好物のなくてはならぬ品物である。先生は汚らしい桶の蓋を静に取って、下痢した人糞のような色を・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫