・・・果物の籠には青林檎やバナナが綺麗につやつやと並んでいた。「どう? お母さんは。――御免なさいよ。電車がそりゃこむもんだから。」 お絹はやはり横坐りのまま、器用に泥だらけの白足袋を脱いだ。洋一はその足袋を見ると、丸髷に結った姉の身のま・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そうしてその町の右側に、一軒の小さな八百屋があって、明く瓦斯の燃えた下に、大根、人参、漬け菜、葱、小蕪、慈姑、牛蒡、八つ頭、小松菜、独活、蓮根、里芋、林檎、蜜柑の類が堆く店に積み上げてある。その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ 私が学生々活をしていた頃には、米国風な広々とした札幌の道路のこゝかしこに林檎園があった。そこには屹度小さな小屋があって、誰でも五六銭を手にしてゆくと、二三人では喰い切れない程の林檎を、枝からもぎって籃に入れて持って来て喰べさせてくれた・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・小さな梨、粒林檎、栗は生のまま……うでたのは、甘藷とともに店が違う。……奥州辺とは事かわって、加越のあの辺に朱実はほとんどない。ここに林のごとく売るものは、黒く紫な山葡萄、黄と青の山茱萸を、蔓のまま、枝のまま、その甘渋くて、且つ酸き事、狸が・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・蜜柑、林檎の水菓子屋が負けじと立てた高張も、人の目に着く手術であろう。 古靴屋の手に靴は穿かぬが、外套を売る女の、釦きらきらと羅紗の筒袖。小間物店の若い娘が、毛糸の手袋嵌めたのも、寒さを凌ぐとは見えないで、広告めくのが可憐らしい。 ・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・かの女は今一つ持っていた林檎を出した。「………」僕は黙ってそれを奪い取ってから、つかつかと家にはいった。 一七 その後、吉弥に会うたびごとに、おこって見たり、冷かして見たり、笑って見たり、可愛がって見たり――こッ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・もし其人が敏感であって、美に対して感激を有していたなら、たとえ其処に転がっている一個の林檎に対しても主観の輝きが見られる訳です。区役所に行って役人に遇ったゞけでも、また巡査に道を聞いただけでも、荷車を引いている労働者を見たゞけでも、また乳呑・・・ 小川未明 「芸術は生動す」
・・・そのたびに、果物店には、赤い帯が見えて、娘が葡萄や、林檎を買っていたり、また絵はがきを選んでいるのを見て、よくはやる家だと思わぬことはなかった。 四日目である。 真昼の空はからりと晴れて、曇がなかった。日は紅く、河原や、温泉場を照ら・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・ある朝、妓が林檎をむいてくれるのを見て、胸が温った。無器用な彼は林檎一つむけず、そんな妓の姿に涙が出るほど感心し、またいじらしくもあり、年期明けたら夫婦になろうと簡単に約束した。 こんなことではいつになったら母親を迎えに行けるだろうかと・・・ 織田作之助 「雨」
・・・帰りしな、林檎はよくよくふきんで拭いて艶を出すこと、水密桃には手を触れぬこと、果物は埃をきらうゆえ始終掃塵をかけることなど念押して行った。その通りに心掛けていたのだが、どういうものか足が早くて水密桃など瞬く間に腐敗した。店へ飾っておけぬから・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫