・・・いっさいを棄てて、おやじといっしょに林檎の世話でもして、とにかく永く活きる工夫をしたい。僕も死にたくないからね。このままで行ったんでは俺の健康も永いことはないということが、このごろだんだんはっきりと分ってきた。K君、おふくろ、T君はまたあん・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・の興奮から思いついた継母の手伝いの肥料担ぎや林檎の樹の虫取りも、惣治に言われるまでもなく、なるほど自分の柄にはないことのようにも思われだした。「やっぱし弟の食客というところかなあ……」と思うほかなかった。…… 二階の窓ガラス越しに、煙害・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・まだ林檎が残っていた。これは林檎を食って、食った林檎の切が今度は火を吹いて口から出て来るというので、試しに例の男が食わされた。皮ごと食ったというので、これも笑われた。 峻はその箸にも棒にもかからないような笑い方を印度人がするたびに、何故・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・常人が問わずしてみすごすことを天才は問い得るのである、林檎はなぜ地に落ちるか? これはかつてニュートンが問うまで常人のものではなかった。姦淫したる女を石にて打つにたうる無垢の人ありや? イエスがこの問いを提出するまで誰も自分の良心に対してか・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・キャラメル一つ。林檎 十銭。差入本の「下附願」。書信 封緘葉書二枚。着物の宅下げ願。 運動は一日一度――二十分。入浴は一週二度、理髪は一週一度、診察が一日置きにある。一日置きに診察して貰えるので、時にはまるで「お・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・山崎のお母さんは林檎や蜜柑を皿に一杯盛って出した。母が何時か特高室で会ったことのある子供を負んぶしていたおかみさんが、その蜜柑の一つを太い無骨な指でむいていたが、独言のように、「中にいるうちのおどに一つでも、こんな蜜柑を食わせてやりたい……・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・「きょうはみんなの三時にと思って、林檎を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」「旦那さんのように、いろいろなものを買って提げていらっしゃるかたもない。」「そう言えば、鼠坂の椿が咲いていたよ。今にもうおれの家の庭へも春がやって来・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・お前さんの魂がわたしの魂の中へ、丁度蛆が林檎の中へ喰い込むように喰い込んで、わたしの魂を喰べながら、段々深みへもぐり込むのだわ。こんな風にせられていた日には、いつかはわたしというものが無くなって、黒い糞と林檎の皮とだけが跡に残るに違いないわ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・みんな客間に集って、母は、林檎の果汁をこしらえて、五人の子供に飲ませている。末弟ひとり、特別に大きいコップで飲んでいる。 退屈したときには、皆で、物語の連作をはじめるのが、この家のならわしである。たまには母も、そのお仲間入りすることがあ・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫