・・・さかなは、鑵詰の蟹と、干椎茸であった。林檎もあった。「おい、もう一晩のばさないか?」「ええ、」妻は雑誌を見ながら答えた。「どうでも、いいけど。でも、お金たりなくなるかも知れないわよ。」「いくらのこってんだい?」そんなことを聞きな・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・憎まれ児世に蔓ると云う諺の裏を云えば、身体が丈夫で、智恵があって、金があって、世間を闊歩するために生れたような人は、友情の籠った林檎をかじって笑いながら泣くような事のあるのを知らずにしまうかも知れない。あの頃自分は愛読していた書物などの影響・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
西洋では五月に林檎やリラの花が咲き乱れて一年中でいちばん美しい自然の姿が見られる地方が多いようである。しかし日本も東京辺では四月末から五月初めへかけて色々な花が一と通り咲いてしまって次の季節の花のシーズンに移るまでの間にち・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・ わたくしの若い時分、明治三十年頃にはわれわれはまだ林檎もバナナも桜の実も、口にしたことが稀であった。むかしから東京の人が口にし馴れた果物は、西瓜、真桑瓜、柿、桃、葡萄、梨、粟、枇杷、蜜柑のたぐいに過ぎなかった。梨に二十世紀、桃に白桃水・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・しかし関係を明める方を専らにする人は、明めやすくするために、味わう事のできない程度までにこの関係を抽象してしまうかも知れません。林檎が三つあると、三と云う関係を明かにさえすればよいと云うので、肝心の林檎は忘れて、ただ三の数だけに重きをおくよ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・そしてとりたての林檎のように張り切った小さな頬に、ハムマーのようにキッスを立て続けにぶっつけた。 M署の高等係中村は、もう、蚊帳の外に腰を下して、扇子をバタバタ初めていた。「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込ま・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・日本の本州ばかりでいっても、南方の熱い処には蜜柑やザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎や梨がよく出来るという位差はある。まして台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナナとかパインアップルとかいうような、まるで種類も味も違った菓物がある。江南の・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・その頬は林檎のよう、その息は百合のようにかおりました。 ギラギラのお日さまがお登りになりました。今朝は青味がかって一そう立派です。日光は桃いろにいっぱいに流れました。雪狼は起きあがって大きく口をあき、その口からは青い焔がゆらゆらと燃えま・・・ 宮沢賢治 「水仙月の四日」
・・・葡萄を売っている。林檎を売っている。赤や黄色で刷った絵草紙、タオル、木の盆、乾蕎麦や数珠を売っている。門を並べた宿坊の入口では、エプロンをかけた若い女が全く宿屋の女中然として松の樹の下を掃いたりしている。 参詣人の大群は、日和下駄をはき・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・ 周知の通り、林檎が樹から落ちるのを不思議に感じて問題としたことが、近代物理学への重大貢献となった。あたり前の現象として人々が不思議がらない事柄のうちに不思議を見出すのが、法則発見の第一歩なのである。寺田さんは最も日常的な事柄のうちに無・・・ 和辻哲郎 「寺田寅彦」
出典:青空文庫