・・・翁の果報は、やがて御房の堕獄の悪趣と思召され、向後は……」「黙れ。」 阿闍梨は、手頸にかけた水晶の念珠をまさぐりながら、鋭く翁の顔を一眄した。「不肖ながら道命は、あらゆる経文論釈に眼を曝した。凡百の戒行徳目も修せなんだものはない・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・――まあ、そんなに急がないで、大船に乗った気で待っているさ。果報は寝て待てって云うじゃないか。」と、冗談まじりに答えました。するとその声がまだ終らない内に、もう一つのぼやけた声が急に耳の側へ来て、「悪あがきは思い止らっしゃれや。」と、はっき・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 紫の雲の、本願寺の屋の棟にかかるのは引接の果報ある善男善女でないと拝まれない。が紅の霞はその時節にここを通る鰯売鯖売も誰知らないものはない。 深秘な山には、谷を隔てて、見えつつ近づくべからざる巨木名花があると聞く。……いずれ、佐保・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 一樹が、あの、指を胸につけ、その指で、左の目をおさえたと思うと、「毬栗は果報ものですよ。」 私を見て苦笑しながら、羽織でくるくると夏帽子を包んで、みしと言わせて、尻にかって、投膝に組んで掌をそらした。「がきに踏まれるよりこ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・私は女に生れました、ほこりと果報を、この人によって享けましょう。――この人は、死んだ鯉の醜い死骸を拾いました。……私は弱い身体の行倒れになった肉を、この人に拾われたいと存じます。画家 (あるいは頷奥さん、更めて、お縫さん。夫人 はア・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・あの晩一緒に死んでおけば、今頃はうまれかわって、小いろの一つも持った果報な男になったろう。……糸も、紅糸は聞いても床しい。」「それどころじゃありません。その糸から起った事です。千五百石の女ですが、初路さん、お妾腹だったんですって。それで・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・……第一そこらにひらひらしている蝶々の袖に対しても、果報ものの狩衣ではない、衣装持の後見は、いきすぎよう。 汗ばんだ猪首の兜、いや、中折の古帽を脱いで、薄くなった折目を気にして、そっと撫でて、杖の柄に引っ掛けて、ひょいと、かつぐと、・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老の漸く来らんとするころとうとう一の富を突き当てて妙齢の美人を妻とした。 尤も笑名はその時は最早ただの軽焼屋ではなかった。将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお台屋の株を買って立派な旦那衆となって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・俺はちっとは病ってもいいから、新さんの果報の半分でもあやかりてえもんだ」「まあ、とんだ物好きね。内のがどう果報なんだろう?」「果報じゃねえか、第一金はあるしよ……」「御笑談もんですよ! 金なんか一文もあるものかね。資本だって何だ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・汝が未来に持っている果報の邪魔はおれはしねえ、辛いと汝ががおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。とさすが快活な男も少し鼻声になりながらなお酔に紛らして勢よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行を積んだものか泣きも・・・ 幸田露伴 「貧乏」
出典:青空文庫