・・・そうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂った枝の中に、彼の体を抱き上げて、水際の柔らかな泥の上へまっさかさまに抛り出した。 その途端に何小二は、どうか云う聯想の関係で、空に燃えている鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・鉄縁の鼻眼鏡の後には、不相変小さな眼が、柔らかな光をたたえながら、アイロニカルな微笑を浮べている。その眼がまた、妙に本間さんの論鋒を鈍らせた。「成程、ある仮定の上に立って云えば、君の説は正しいでしょう。」 本間さんの議論が一段落を告・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・房さんは禿頭を柔らかな猫の毛に触れるばかりに近づけて、ひとり、なまめいた語を誰に云うともなく繰り返しているのである。「その時にお前が来てよ。ああまで語った己が憎いと云った。芸事と……」 中洲の大将と小川の旦那とは黙って、顔を見合せた・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・暖かい夢を柔らかなふわふわした白絹につつんだように何ともいえない心地がするかと思うと、すぐあとから罪深い恐ろしい、いやでたまらない苦悶が起こってくる。どう考えたっておとよさんは人の妻だ、ぬしある人だ、人の妻を思うとは何事だ、ばかめ破廉恥め、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ いつも快活で、そして、また独りぼっちに自分を感じた年子は、しばらく、柔らかな腰掛けにからだを投げて、うっとりと、波立ちかがやきつつある光景に見とれて、夢心地でいました。「このはなやかさが、いつまでつづくであろう。もう、あと二時間、・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・中にも、この小さな木の芽は、柔らかな頭をひたひたとさして、いまにもちぎれそうでありました。 粗野で、そそっかしい風は、いつやむと見えぬまでに吹いて、吹いて吹き募りました。木の芽は、もはや目をまわして、いまにも倒れそうになったのであります・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・どこからともなく、柔らかな風が花のいい香りを送ってきますので、それをかいでいるうちに、門番はうとうとと居眠りをしていたのであります。 ちょうど、そのとき、みすぼらしいようすをした女の乞食がお城の内へ入ってきました。女の乞食は門番が居眠り・・・ 小川未明 「お姫さまと乞食の女」
・・・ 四季について言えば、三十までは、春の日の光りの裡にまどろむ自然の如くでありました。柔らかな、香わしい風に吹かれる、若葉のように、うっとりとした時節でありました。たとえ、その光には、嚇々とした夏があり、楽しみの多き、また働き甲斐の多き、・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・高い天井、白い壁、その上ならず壇の上には時ならぬ草花、薔薇などがきれいな花瓶にさしてありまして、そのせいですか、どうですか、軽い柔らかな、いいかおりが、おりおり暖かい空気に漂うて顔をなでるのです。うら若い青年、まだ人の心の邪なことや世のさま・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・それは穏やかな罪のない眠りで、夢とも現ともなく、舷側をたたく水の音の、その柔らかな私語くようなおりおりはコロコロコロと笑うようなのをすぐ耳の下の板一枚を隔てて聞くその心地よさ。時々目を開けて見ると薄暗い舷燈のおぼろげな光の下に円座を組んで叔・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
出典:青空文庫