・・・中にはちょうど一本足の案山子に似たのもある。あるいは二本の長い棒を横たえた武士のようなのも居る。皆大概はじっとしているが、午頃には時々活動しているのを見受ける。彼等にも一定の労働時間や食事の時間があるのかと思ったりした。ある時大きなのがちょ・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」などいう江戸座の発句を、そのままの実景として眺めることができたのである。 浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示し・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 友達が手酌の一杯を口のはたに持って行きながら、雪の日や飲まぬお方のふところ手と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、酒飲まぬ人は案山子の雪見哉と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・人間は、これ程の災厄を、愚な案山子のように突立ったぎりでは通すまい。灰の中から、更に智慧を増し、経験によって鍛えられ、新たな生命を感じた活動が甦るのだ。人間のはかなさを痛感したことさえ無駄にはならない。非常に際し、命と心の力をむき出しに見た・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
・・・は多くの場合に対世間的な根の浅い名声の案山子である。博士であると否とにかかわらず学者の価値はその仕事の価値によってのみ定まる。しかも世間は「博士」が大きい仕事の標徴であるかのごとくに考えている。そこに不正と虚偽がある。この点についてはおそら・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫