・・・ 自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀を持ってきて夜半ひそかに幾度となく胸にあててみた……ような日が二月も三月も続いた。・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 森川町の草津の湯の傍の簾藤という下宿屋に転じたのはその後であった。この簾藤時代が緑雨の最後の文人生活であった。緑雨が一葉の家へしげしげ出入し初めたのはこの時代であって、同じ下宿に燻ぶっていた大野洒竹の関係から馬場孤蝶、戸川秋骨というよ・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 学生街なら、たいして老舗がついていなくても繁昌するだろうと、あちこち学生街を歩きまわった結果、一高が移転したあとすっかりはやらなくなって、永い間売りに出ていた本郷森川町の飯屋の権利を買って、うどん屋を開業した。 はじめはかなり客も・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・大晦日の夜の十二時過ぎ、障子のあんまりひどく破れているのに気がついて、外套の頭巾をひっかぶり、皿一枚をさげて森川町へ五厘の糊を買いに行ったりした。美代はこの夜三時過ぎまで結びごんにゃくをこしらえていた。 世間はめでたいお正月になって、暖・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・木枯しが森川町の方から大学の前を渦巻いて来る度に、店ごとの瓦斯燈が寒そうに溜息をする。竹村君はこの空ら風の中を突兀として、忙しそうな往来の人を眺めて歩く。知らぬ人ばかりである。忙しい世間は竹村君には用はない。何かなしに神田で覘いてみた眼鏡の・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅あたりを行くのだろうと思っている中、車掌が次は須崎町、お降りは御在ませんかといった。降る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 散々思い惑うた末、先の内お君が半年ほど世話になって居た、森川の、川窪と云う、先代から面倒を見てもらって居る家へ出かけて見る気になった。 けれ共、考えて見れば川窪へも行かれた義理ではない。お君が、我儘から辛棒が出来ないで、母親に嘘電・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
出典:青空文庫