・・・残月の光りに照らされた子供はまだ模糊とした血塊だった。が、その血塊は身震いをすると、突然人間のように大声を挙げた。「おのれ、もう三月待てば、父の讐をとってやるものを!」 声は水牛の吼えるように薄暗い野原中に響き渡った。同時にまた一痕・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・図は四条の河原の涼みであって、仲居と舞子に囲繞かれつつ歓楽に興ずる一団を中心として幾多の遠近の涼み台の群れを模糊として描き、京の夏の夜の夢のような歓楽の軟かい気分を全幅に漲らしておる。が、惜しい哉、十年前一見した時既に雨漏や鼠のための汚損が・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・あの雲煙模糊の大陸が佐渡だとすると、到着までには、まだ相当の間がある。早くから騒ぎまわって損をした。私は、再びうんざりして、毛布を引っぱり船室の隅に寝てしまった。 けれども他の船客たちは、私と反対に、むくりむくり起きはじめ、身仕度にとり・・・ 太宰治 「佐渡」
「純真」なんて概念は、ひょっとしたら、アメリカ生活あたりにそのお手本があったのかも知れない。たとえば、何々学院の何々女史とでもいったような者が「子供の純真性は尊い」などと甚だあいまい模糊たる事を憂い顔で言って歎息して、それを・・・ 太宰治 「純真」
・・・雲煙模糊である。「アンリ・ベックの、……」背後の青年が、また言った。笠井さんは、それを聞き、ふたたび頬を赤らめた。わからないのである。アンリ・ベック。誰だったかなあ。たしかに笠井さんは、その名を、嘗つて口にし、また書きしたためたこともあ・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・その末はいつとなく模糊たる雲煙の中に没しているのが誘惑的である。ちょっと見ると一と息で登れそうな気がするが、上り口の立て札には頂上まで五時間を要し途中一滴の水もないと書いてある。誘惑にはうっかり乗れない。 第一日には頂上までの五分の一だ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・絵巻物ではそのかわりに雲や水や森や山の模糊たる雰囲気が用いられる。ある場合には紙面の上下に二つの場面の終わりと始めとが雲煙を隔ててオーバーラップの形で現われることもあるであろう。今手近に適切な実例をあげることはできないが、おそらくこれらの絵・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・昨年九月一日被服廠跡で起った火焔の渦巻を支配したと同じ方則がここにも支配しているのだろうと思って、一生懸命に眺めていたが、この模糊とした煙の中から、そう手取早く要領を得た方則を読取る事は容易な仕事ではないのであった。 五回に一回くらいは・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・これを過ぐれば左に鳰の海蒼くして漣水色縮緬を延べたらんごとく、遠山模糊として水の果ても見えず。左に近く大津の町つらなりて、三井寺木立に見えかくれす。唐崎はあの辺かなど思えど身地を踏みし事なければ堅田も石山も粟津もすべて判らず。九つの歳父母に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
日々門巷を過る物売の声もおのずから時勢の推移を語っている。 下駄の歯入屋は鞭を携えて鼓を打つ。この響は久しく耳に馴れてしまったので、記憶は早くも模糊として其起源のいつごろであったかを詳にしない。明治四十一年の秋、わたく・・・ 永井荷風 「巷の声」
出典:青空文庫