・・・ 亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、「恵蓮。恵蓮」と呼び立てました。 その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしてい・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ Mの次の間へ引きとった後、僕は座蒲団を枕にしながら、里見八犬伝を読みはじめた。きのう僕の読みかけたのは信乃、現八、小文吾などの荘助を救いに出かけるところだった。「その時蜑崎照文は懐ろより用意の沙金を五包みとり出しつ。先ず三包みを扇にの・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ 彼等がそんな事を話している内に、お絹はまだ顔を曇らせたまま、急に長火鉢の前から立上ると、さっさと次の間へはいって行った。「やっと姉さんから御暇が出た。」 賢造は苦笑を洩らしながら、始めて腰の煙草入れを抜いた。が、洋一はまた時計・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ と言うと、次の間の――崖の草のすぐ覗く――竹簀子の濡縁に、むこうむきに端居して……いま私の入った時、一度ていねいに、お時誼をしたまま、うしろ姿で、ちらりと赤い小さなもの、年紀ごろで視て勿論お手玉ではない、糠袋か何ぞせっせと縫っていた。・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ところが、次の間つきで、奥だけ幽にともれていて、あとが暗い。一方が洗面所で、傍に大きな石の手水鉢がある、跼んで手を洗うように出来ていて、筧で谿河の水を引くらしい……しょろ、しょろ、ちゃぶりと、これはね、座敷で枕にまで響いたんだが、風の声も聞・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・造次の間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾に渠らを・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ お千代も次の間から飛んできて父を抑える。お千代はようやく父をなだめ、母はおとよを引き立てて別間へ連れこむ。この場の騒ぎはひとまず済んだが、話はこのまま済むべきではない。 七 おとよの父は平生ことにおとよを愛し・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・其の次の間にも、二三人いたようだ。大きな宿屋は、至って静かだ。たゞ、海から吹いて来る風が開け放たれた室に入った。海は、さながら、鏡の面に息を吹きかけて、曇った程にしか見られない。彼の、北国の海の上を走るような、黒い陰気な雲の片影すらなかった・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・ お光は頷いて、着物着更えに次の間へ入った。雇い婆は二階へ上るし、小僧は食台を持って洗槽元へ洗い物に行くし、後には為さん一人残ったが、お光が帯を解く音がサヤサヤと襖越しに聞える。「お上さん」と為さんは声をかける。「何だね?」と襖・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・生の事に思し召され候わば大違いに候、妻のことに候、あの言葉少なき女が貞夫でき候て以来急に口数多く相成り近来はますますはげしく候、そしてそのおしゃべりの対手が貞夫というに至っては実に滑稽にござ候、先夜も次の間にて貞夫を相手に何かわからぬことを・・・ 国木田独歩 「初孫」
出典:青空文庫