・・・戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が、いま必要であります。お前たちの責任は重いぜ。」 と或る詩人が、私の家へ来て私に向って言・・・ 太宰治 「或る忠告」
・・・それで人々は「馬鹿正直」という渾名を彼に与えた。この「馬鹿正直」を徹底させたものが今日の彼の仕事になろうとは、誰も夢にも考えなかった事であろう。 音楽に対する嗜好は早くから眼覚めていた。独りで讃美歌のようなものを作って、独りでこっそり歌・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 明治の初年は一方において西洋文明を丁寧に輸入し綺麗に模倣し正直に工風を凝した時代である。と同時に、一方においては、徳川幕府の圧迫を脱した江戸芸術の残りの花が、目覚しくも一時に二度目の春を見せた時代である。劇壇において芝翫、彦三郎、田之・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・一剋である外に欠点はない彼は正直で勤勉でそうして平穏な生涯を継続して来た。殊に瞽女を知ってからというもの彼は彼の感ずる程度に於て歓楽に酔うて居た。二十年の歓楽から急転し彼は備さに其哀愁を味わねばならなくなった。一大惨劇は相尋いで起った。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・今の人は正直で自分を偽らずに現わす、こういう風で寛容的精神が発達して来た。しこうして社会もまたこれを容れて来たのであります。昔は一遍社会から葬られた者は、容易に恢復する事が出来なかったが、今日では人の噂も七十五日という如く寛大となったのであ・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・私は実際、正直な所其時、英雄的な、人道的な、一人の禁欲的な青年であった。全く身も心もそれに相違なかった。だから、私は彼女に、私が全で焼けつくような眼で彼女の××を見ていると云うことを、知られたくなかったのだ。眼だけを何故私は征服することが出・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・然るに主人の口吻は常に家内安全を主とし質素正直を旨とし、その説教を聞けばすこぶる愚ならずして味あるが如くなれども、最大有力の御用向きかまたは用向きなるものに逢えば、平生の説教も忽ち勢力を失い、銭を費やすも勤めなり、車馬に乗るも勤めなり、家内・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・ 私は当時「正直」の二字を理想として、俯仰天地に愧じざる生活をしたいという考えを有っていた。この「正直」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もっと大関係のあるのは、私が受けた儒教の感化である。話は少し以前に遡るが、私は帝国主義の感化・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・あなたが次第に名高くおなりになるのを、わたくしは蔭ながら胸に動悸をさせて、正直に心から嬉しく存じて傍看いたしていました。それにひっきりなしに評判の作をお出しになるものですから、わたくしが断えずあなたの事を思わせられるのも、余儀ないわけでござ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢清浄、彼の歌や玲瓏透徹。 貧、か・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫