・・・そう思案した私は、実をいえば中学生の頃から髪の毛を伸ばしたかったのである。 しかし中学生の分際で髪の毛を伸ばすのは、口髭を生やすよりも困難であった。それ故私は高等学校にはいってから伸ばそうという計画を樹て、学校もなるべく頭髪の型に関する・・・ 織田作之助 「髪」
・・・葬式の通知も郷里の伯母、叔父、弟の細君の実家、私の妻の実家、これだけへ来る十八日正二時弘前市の菩提寺で簡単な焼香式を営む旨を書き送った。 十七日午後一時上野発の本線廻りの急行で、私と弟だけで送って行くことになった。姉夫婦は義兄の知合いの・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ 二 青空が広く、葉は落ち尽くし、鈴懸が木に褐色の実を乾かした。冬。凩が吹いて、人が殺された。泥棒の噂や火事が起こった。短い日に戸をたてる信子は舞いこむ木の葉にも慴えるのだった。 ある朝トタン屋根に足跡が印されて・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」「・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 生命の法則についての英知があって、かつ現代の新生活の現実と機微とを知っている男女はこの二つの見方を一つの生活に融かして、夫婦道というものを考えばならぬ。 人間が、文化と、精神と霊とを持っているのでなかったら夫婦道というものは初めか・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・それが今春花が咲き、いま青い実を結んでいる。桃栗何年とか云われるように桃は一体不思議なほど早く生長して早くなるものである。が、その樹齢はかなり短い。十年そこそこで、廃木となる。梅は実生からだと十年あまりかかって始めて花が咲き実を結びはじめる・・・ 黒島伝治 「短命長命」
皆さん。浅学不才な私如き者が、皆さんから一場の講演をせよとの御求めを受けましたのは、実に私の光栄とするところでござります。しかし私は至って無器用な者でありまして、有益でもあり、かつ興味もあるというような、気のきいた事を提出・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・そして、その真実なるをたしかめえたときに、どんなに情けなく、あさましく、かなしく、恥ずかしくも感じたことであろう。なかでも、わたくしの老いたる母は、どんなに絶望の刃に胸をつらぬかれたであろう。 されど、今のわたくし自身にとっては、死刑は・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・思い出したる俊雄は早や友仙の袖や袂が眼前に隠顕き賛否いずれとも決しかねたる真向からまんざら小春が憎いでもあるまいと遠慮なく発議者に斬り込まれそれ知られては行くも憂し行かぬも憂しと肚のうちは一上一下虚々実々、発矢の二三十も列べて闘いたれどその・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 実に些細なことから、私は今の家を住み憂く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。 ある日も私は・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫