・・・もっと此方へ来るがいい。A 己は待っている。己は怖がるような臆病者ではない。男 お前は己の顔をみたがっていたな。もう夜もあけるだろう。よく己の顔を見るがいい。A その顔がお前か? 己はお前の顔がそんなに美しいとは思わなかった。・・・ 芥川竜之介 「青年と死」
・・・暗らくなった谷を距てて少し此方よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影は、人気のない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその灯を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・可哀がって遣るから、もっと此方へおいで」といった。 レリヤはこういって顔を振り上げた。犬を誉めた詞の通りに、この娘も可哀い眼付をして、美しい鼻を持って居た。それだから春の日が喜んでその顔に接吻して、娘の頬が赤くなって居るのだ。 クサ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延ばして安らかな眠りを待ってる気持はどうだね。B それあ可いさ。君もなかなか話せる。A 可いだ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・見るからに可懐しさ言わんかたなし。此方もおなじおもいの身なり。遥にそのあたりを思うさえ、端麗なるその御姿の、折からの若葉の中に梢を籠めたる、紫の薄衣かけて見えさせたまう。 地誌を按ずるに、摩耶山は武庫郡六甲山の西南に当りて、雲白く聳えた・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・んだ仏神の御名を忘れようとした処へ――花の梢が、低く靉靆く……藁屋はずれに黒髪が見え、すらりと肩が浮いて、俯向いて出たその娘が、桃に立ちざまに、目を涼しく、と小戻をしようとして、幹がくれに密と覗いて、此方をば熟と視る時、俯目になった。 ・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・別に、眼を娯しますものもないから、欄に倚りかゝって、前の二階の客が煙草を喫ったり、話しをしていたり、やはり、つくねんとして此方を見ているのを見る他、眼をどうしても、此の二軒の店に落さずにはいられなかった。そのたびに、果物店には、赤い帯が見え・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・また眼を転じて此方を見ると、ちら/\と漁火のように、明石の沿岸の町から洩れる火影が波に映っている。 歩いて須磨へ行く途中、男がざるに石竹を入れて往来を来るのに出遇った。見たことのないような、小さな、淡紅い可愛らしい花が咲いていた。また、・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・第一中隊のシードロフという未だ生若い兵が此方の戦線へ紛込でいるから如何してだろう?と忙しい中で閃と其様な事を疑って見たものだ。スルト其奴が矢庭にペタリ尻餠を搗いて、狼狽た眼を円くして、ウッとおれの面を看た其口から血が滴々々……いや眼に見える・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
一 この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜を悪くしたのですが、此方へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知れません。然・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫