・・・ 右肩下りの背中のあとについて、谷ぞいの小径を歩きだした。 しかし、ものの二十間も行かぬうちに、案内すると見せかけた客引きは、押していた自転車に飛び乗って、「失礼しやして、お先にやらしていただきやんす。お部屋の用意をしてお待ち申・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・隣歩きで全然力が脱けた。それにこの恐ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日明後日となったら――ええ思遣られる。今だって些ともこうしていたくはないけれど、こう草臥ては退くにも退かれぬ。少し休息したらまた旧処へ戻ろう。幸いと・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・彼は昼頃までそちこち歩き廻って帰って来たが、やはり為替が来てなかった。 で彼はお昼からまた、日のカン/\照りつける中を、出て行った。顔から胸から汗がぽた/\流れ落ちた。クラ/\と今にも打倒れそうな疲れた頼りない気持であった。歯のすり減っ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして彼はまたしばらくすると路を崖下の町へ歩きはじめた。 4「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のなかに浮かんだ人影を眺めてそう思った。彼は幾晩もその人影を認めた。そのたびに彼はそれがカフェで話し合った青・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ さて大友はお正に会ったけれど、そして忘れ得ぬ前年の夜と全然く同じな景色に包まれて同じように寄添うて歩きながらも、別に言うべき事がない。却ってお正は種々の事を話しかける。「貴下いつかの晩も此様でしたね。」「貴下彼晩のことを憶えて・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・ 彼は歩きながら云ってみた。「ガーリヤ。」「ガーリヤ。」「ガーリヤ。」「あんたは、なんて生々しているんだろう。」 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 土耳古帽氏が真鍮刀を鼠股引氏に渡すと、氏は直にそれを予に逓与して、わたしはこれは要らない、と云いながら、見つけたものが有るのか、ちょっと歩きぬけて、百姓家の背戸の雑樹籬のところへ行った。籬には蔓草が埒無く纏いついていて、それに黄色い花・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 俺はだまって、その方へ歩き出した。 アパアト住い「南房」の階上。 独房――「No. 19.」 共犯番号「セ」の六十三号。 警察から来ると、此処は何んと静かなところだろう。長い廊下の両側には、錠の・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・内儀「そんな事を云っていらしっては困ります、何処へでも忠実にお歩きあそばせば、御贔屓のお方もいかいこと有りまして来い/\と仰しゃるのにお出でにもならず、実に困ります、殊に日外中度々お手紙をよこして下すった番町の石川様にもお気の毒様で、食・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・あちこちと廊下を歩き廻っている白い犬がおげんの眼に映った。狆というやつで、体躯つきの矮小な割に耳の辺から冠さったような長い房々とした毛が薄暗い廊下では際立って白く見えた。丁度そこへ三十五六ばかりになる立派な婦人の患者が看護婦の部屋の方から廊・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫