・・・ やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、嗄れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないように、いつかもうぐっすり寝入っていました。 五 妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼に・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々しく聞いていた。と同時にまた、昔の放埓の記憶を、思い出すともなく思い出した。それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮な記憶である。彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・上げて来る潮で波が大まかにうねりを打って、船渠の後方に沈みかけた夕陽が、殆ど水平に横顔に照りつける。地平線に近く夕立雲が渦を巻き返して、驟雨の前に鈍った静かさに、海面は煮つめた様にどろりとなって居る。ドゥニパー河の淡水をしたたか交えたケルソ・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・軽蔑しないまでも殆ど無関心にエスケープしている。しかしいのちを愛する者はそれを軽蔑することが出来ない。B 待てよ。ああそうか。一分は六十秒なりの論法だね。A そうさ。一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 人通りも殆ど途絶えた。 が、何処ともなく、柳に暗い、湯屋の硝子戸の奥深く、ドブンドブンと、ふと湯の煽ったような響が聞える。…… 立淀んだ織次の耳には、それが二股から遠く伝わる、ものの谺のように聞えた。織次の祖母は、見世物のその・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・田舎の他土地とても、人家の庭、背戸なら格別、さあ、手折っても抱いてもいいよ、とこう野中の、しかも路の傍に、自由に咲いたのは殆ど見た事がない。 そこへ、つつじの赤いのが、ぽーとなって咲交る。…… が、燃立つようなのは一株も見えぬ。霜に・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・位というものが乏しく、金の力を以て何人にも買い得らるる最も浅薄に最も下品なる娯楽に満足しつつあるにあるのであろう、今は種々な問題に対して、口の先筆の先の研究は盛に行われつつあるが、実行如何と顧ると殆ど空である、今日の上流社会に茶の湯の真・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・嫁にいこうがどうしようが、民子は依然民子で、僕が民子を思う心に寸分の変りない様に民子にも決して変りない様に思われて、その観念は殆ど大石の上に坐して居る様で毛の先ほどの危惧心もない。それであるから民子は嫁に往ったと聞いても少しも驚かなかった。・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・このためには、その作者は、自から子供となり、子供の時代の人となって、殆ど児童と同一の感情と心理と理解をこの自然に対して持たなければならない。この点は、成人を相手とする読物以上に骨の折れることであって、技巧とか、単なる経験有無の問題でなく天分・・・ 小川未明 「新童話論」
・・・ これまで新吉は書き出しの文章に苦しむことはあっても、結末のつけ方に行き詰るようなことは殆どなかった。新吉の小説はいつもちゃんと落ちがついていた。書き出しの一行が出来た途端に、頭の中では落ちが出来ていた。いや結末の落ちが泛ばぬうちは、書・・・ 織田作之助 「郷愁」
出典:青空文庫