・・・ぎらぎらと瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。縊り殺されそうな泣き声・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友達にも話し、妻にも話・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 最も臆病に、最も内心に恐れておった自分も、側から騒がれると、妙に反撥心が起る。殊更に落ちついてる風をして、何ほど増して来たところで溜り水だから高が知れてる。そんなにあわてて騒ぐに及ばないと一喝した。そうしてその一喝した自分の声にさえ、・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・それで世間一般から、茶の湯というものが、どういうことに思われて居るかと察するに、一は茶の湯というものは、貴族的のもので到底一般社会の遊事にはならぬというのと、一は茶事などというものは、頗る変哲なもの、殊更に形式的なもので、要するに非常識的の・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・おのずから人前を憚り、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心が長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕はただ一言、「はア……」 と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。「僕は・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・とささやいたので思いがけない悪心が起ったので山刀をさし枕槍をひっさげてその坊さんの跡をおっかけて行く、まだ九つ許りの娘の分際でこんな事を親に進めたのは大悪人である。殊更、熊野の奥の山家に住んで居るんだから、干鯛が木になるものだか、からかさは・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・自分は一度殊更に火鉢の傍に行って烟草を吸って、間の襖を閉めきって、漸く秘密の左右を得た。 懐からそっと盗すむようにして紙幣の束を出したが、その様子は母が机の抽斗から、紙幣の紙包を出したのと同じであったろう。 一円紙幣で百枚! 全然注・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・誰れかゞ金を紛失した場合、殊更、帳尻を合わしていない者に嫌疑が掛って来た。帳尻の合っていない者が盗んだとは、断定することは出来ない。それは弱点ではあった。が、盗んだ者だという理由にはならなかった。けれども、実際には、帳尻を合わしていない、投・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 栗本は、一本の藁にでもすがりたい気持をかくして、殊更、気軽く、「こっちの中尉がメリケン兵を斬りつけたんが悪かったんかい?」と重ねてきいた。「あゝ。」田口は気乗りのしない返事をした。「それで悶着がおこってきたんだ。」「だって・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 仁助は、従弟が皆に笑われたり、働きが鈍かったりすると、妙に腹が立つらしく、殊更京一をがみがみ叱りつけた。時には、彼の傍についていて、一寸した些事を一々取り上げて小言を云った。桃桶で汲む諸味の量が多いとか、少いとか、やかましく云った。・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
出典:青空文庫