・・・自分の心の醜さと、肉体の貧しさと、それから、地主の家に生れて労せずして様々の権利を取得していることへの気おくれが、それらに就いての過度の顧慮が、この男の自我を、散々に殴打し、足蹶にした。それは全く、奇妙に歪曲した。このあいそのつきた自分の泡・・・ 太宰治 「花燭」
・・・「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」 議論とは、往々にして妥協したい情熱である。「自信とは何ですか。」「将来の燭光を見た時の心の姿です。」「現在の?」「それは使いものになりません。ばかです・・・ 太宰治 「かすかな声」
・・・こころよい愛撫のかわりに、歯齦から血の出るほどの殴打があった。水辺のしずかな散歩のかわりに、砂塵濛々の戦車の疾駈があった。 相剋の結合は、含羞の華をひらいた。アグリパイナは、みごもった。ブラゼンバートは、この事実を知って大笑した。他意は・・・ 太宰治 「古典風」
・・・散々の殴打。低く小さい、鼻よりも、上唇一、二センチ高く腫れあがり、別段、お岩様を気にかけず、昨夜と同じに熟睡うまそう、寝顔つくづく見れば、まごうかたなき善人、ひるやかましき、これも仏性の愚妻の一人であった。 山上通信太宰・・・ 太宰治 「創生記」
・・・共に酔って、低能の学生たちを殴打した。穢れた女たちを肉親のように愛した。Hの箪笥は、Hの知らぬ間に、からっぽになっていた。純文芸冊子「青い花」は、そのとしの十二月に出来た。たった一冊出て仲間は四散した。目的の無い異様な熱狂に呆れたのである。・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹のおかげで、ついぞ家族を殴打したこともなく、また他の器物を打毀すこともなく温厚篤実な有徳の紳士として生涯を終ったようである。ところが今の巻煙草では灰皿を叩いても手ごたえが弱く、紙の吸口を噛んでみても歯・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・不幸、病気、泣きごと、流血、殴打、ひどい言葉の愚弄、それらはどれもゴーリキイに堪え難く、肉体的な苦痛を引起すのであった。だが、彼の生きる暗い環境の中ではその苦しさが常に極度にまで緊張させられるようなことが頻々として起った。苦痛が嵩じて「一種・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・今度俺とこへ来さらしたら、殴打しまくるぞ。」 安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。「当分ここにおったらええが、その中に良うなろうぜ。」 そう勘次が静に云うと、安次は急に元気な声で早口に、・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫