・・・……書けないなら書かないなんて……だから君はお殿様だというんだよ!」こういった調子で、鞭撻を続けてくれたのだ。しかし何という情けないことだろう! 私は何が、自分をこんなにまで弱らしてしまったのかを、考えることができない。愚か者の妻の――愚痴・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・「竜なら竜、虎なら虎の木彫をする。殿様御前に出て、鋸、手斧、鑿、小刀を使ってだんだんとその形を刻み出す。次第に形がおよそ分明になって来る。その間には失敗は無い。たとい有ったにしても、何とでも作意を用いて、失敗の痕を無くすことが出来る。時・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ですから、客は上布の着物を着ていても釣ることが出来ます訳で、まことに綺麗事に殿様らしく遣っていられる釣です。そこで茶の好きな人は玉露など入れて、茶盆を傍に置いて茶を飲んでいても、相手が二段引きの鯛ですから、慣れてくればしずかに茶碗を下に置い・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・四国の或る殿様の別家の、大谷男爵の次男で、いまは不身持のため勘当せられているが、いまに父の男爵が死ねば、長男と二人で、財産をわける事になっている。頭がよくて、天才、というものだ。二十一で本を書いて、それが石川啄木という大天才の書いた本よりも・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ 剣術の上手な若い殿様が、家来たちと試合をして片っ端から打ち破って、大いに得意で庭園を散歩していたら、いやな囁きが庭の暗闇の奥から聞えた。「殿様もこのごろは、なかなかの御上達だ。負けてあげるほうも楽になった。」「あははは。」・・・ 太宰治 「水仙」
・・・お城へ行ってじきじき殿様へ救済をお願いすればいいのじゃ。おれが行く。惣助は、やあ、と突拍子もない歓声をあげた。それからすぐ、これはかるはずみなことをしたと気づいたらしく一旦ほどきかけた両手をまた頭のうしろに組み合せてしかめつらをして見せた。・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・子供らは得意になって殿様がたのような気持ちになってクラブをふるうているのである。リンクの入り口には「危険」だから入場するなというような意味の立て札がある。ちょっとしたアイロニーを感じさせる。垣根からのぞくと広々とした緑の海の上にぽつりぽつり・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・この映画に現われて来る登場人物のうちで誰が一番幸福な人間かと思って見ると、天晴れ衆人の嘲笑と愚弄の的になりながら死ぬまで騎士の夢をすてなかったドンキホーテと、その夢を信じて案山子の殿様に忠誠を捧げ尽すことの出来たサンチョと、この二人にまさる・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々として、寒さに顫えながら、台所の板の間に造り付けたように坐って居た。 父は田崎が揃えて出す足駄をはき、車夫喜助の差翳す唐傘を取り、勝手口・・・ 永井荷風 「狐」
・・・正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い、あらい石だたみのような飛白お召の単衣も殊更袖の長いのに、宛然田舎源氏の殿様の着ているようなボカシの裾模様のある藤紫の夏羽織を重ね、ダリヤの花の満開とも言いたげな流行の日傘をさして、山の手の静な屋・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫