・・・今しも届きたる二三の新聞を読み終りて、辰弥は浴室にと宿の浴衣に着更え、広き母屋の廊下に立ち出でたる向うより、湯気の渦巻く濡手拭に、玉を延べたる首筋を拭いながら、階段のもとへと行違いに帰る人あり。乙女なり。かの人ぞと辰弥は早くも目をつけぬ。思・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・下は物置で、土間からすぐ梯子段が付いている、八畳一間ぎり、食事は運んで上げましょというのを、それには及ばないと、母屋に食べに行く、大概はみんなと一同に膳を並べて食うので、何を食べささりょうと頓着しない。 梅ちゃんは十歳の年から世話になっ・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・武の家は一軒の母屋と一軒の物置とありますが物置はいつも戸が〆切ってあってその上に崕から大きな樫の木がおっかぶさっていますから見るからして陰気なのでございます。母屋も広い割合には人気がないかと思われるばかり、シンとしているのです。家にむかいあ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・くず湯に入るべき白き砂糖のなかりければ、老の足のたどたどしくも母屋がり行きもどりせしとは問わでも知らるるに、ここらのさびしさ、人の優しさ目のあたり見ゆ。ただし今の世の風に吹かれたる若き人はこうもあらぬなるべし。 かくてくず湯も成りければ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提げながら、母屋の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としているような家で、入れかわり立ちかわり滞在する客も多い中に、子供・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ と高瀬は声を掛けて、母屋の横手から裏庭の方へ来た。 深い露の中で、学士は朝顔鉢の置並べてある棚の間をあちこちと歩いていた。丁度学士の奥さんは年長のお嬢さんを相手にして開けひろげた勝手口で働いていたが、その時庭を廻って来た。 奥・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・自分は半煮えのような返事をする。母屋の縁先で何匹かのカナリヤがやっきに囀り合っている。庭いっぱいの黄色い日向は彼らが吐きだしているのかと思われる。「ちょっといらっしてごらんなさいな。小さな鮒かしらたくさんいますわ」と、藤さんは眩しそうに・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 母屋の仏間に案内された。床の間を背にして、五所川原の先生それから北さん、中畑さん、それに向い合って、長兄、次兄、私、美知子と七人だけの座席が設けられていた。「速達が行きちがいになりまして。」私は次兄の顔を見るなり、思わずそれを言っ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ 九月のはじめ、私は昼食をすませて、母屋の常居という部屋で、ひとりぼんやり煙草を吸っていたら、野良着姿の大きな親爺が玄関のたたきにのっそり立って、「やあ」と言った。 それがすなわち、問題の「親友」であったのである。(私はこの・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・は、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意でたまらず、文壇の片隅にいて、一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えを・・・ 太宰治 「如是我聞」
出典:青空文庫