・・・ ――あれは―― ――水天宮様のお蝋です―― と二つ並んだその顔が申すんでございます。灯の影には何が映るとお思いなさる、……気になること夥しい。 ――消さないかい―― ――堪忍して―― 是非と言えば、さめざめと、名の・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融けそうに生あたたかに、山にも枯れ草雑りの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と相映じて蒼々茫々、東は際限なく水天互いに交わり、北は四国の山々手に取る・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・金刀比羅宮、男山八幡宮、天照皇大神宮、不動明王、妙法蓮華経、水天宮。――母は、多ければ多いほど、御利益があると思ったのだろう! それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。――まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみ・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・その足袋の紐を結んで、水天宮さまのお参りにでもなんでも出掛けたことを思い出した。そんな旧いことが妙に彼女の胸へ来た。出がけに、彼女は仮の仏壇のところへ行って、「お母さん、行ってまいります」 と告げて行くことを忘れなかった。「おば・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ 村の水天宮様の御威徳を説く時の顔つきである。「ほほほ」「おもしろいな、それは」「そんなら食べなんすか」「食べるよ」「じゃ、よかった」と、またあちらへすたすたと、草履の踵へ短い影法師を引いて行く。 鳩は少しも人に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 千住大橋でおりて水天宮行の市電に乗った。乗客の人種が自分のいつも乗る市電の乗客と全くちがうのに気がついて少し驚いた。おはぐろのような臭気が車内にみなぎっていたが出所は分からない。乗客の全部の顔が狸や猿のように見えた。毛孔の底に煤と土が・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・人形町を過ぎやがて両国に来れば大川の面は望湖楼下にあらねど水天の如し。いつもの日和下駄覆きしかど傘持たねば歩みて柳橋渡行かんすべもなきまま電車の中に腰をかけての雨宿り。浅草橋も後になし須田町に来掛る程に雷光凄じく街上に閃きて雷鳴止まず雨には・・・ 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫