・・・ 六 万客の垢を宿めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深けては氷の上に臥るより耐えられぬかも知れぬ。新造の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物の尽きた小皿とを載せた盆・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・日月星辰の運転、風雨雪霜の変化、火の熱きゆえん、氷の冷きゆえん、井を掘りて水の出ずるゆえん、火を焚きて飯の出来るゆえん、一々その働きを見てその源因を究むるの学にて、工夫発明、器械の用法等、皆これに基かざるものなし。元来、物を見てその理を知ら・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・青梅に眉あつめたる美人かな牡丹散て打ち重りぬ二三片唐草に牡丹めでたき蒲団かな引きかふて耳をあはれむ頭巾かな緑子の頭巾眉深きいとほしみ真結びの足袋はしたなき給仕かな歯あらはに筆の氷を噛む夜かな茶の花や石をめぐりて道・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・湧水がないので、あのつつみへ漬けた。氷がまだどての陰には浮いているからちょうど摂氏零度ぐらいだろう。十二月にどてのひびを埋めてから水は六分目までたまっていた。今年こそきっといいのだ。あんなひどい旱魃が二年続いたことさえいままでの気象の統計に・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・お節があやしんで体にさわった時には氷より冷たく強ってしまって黒い眼鏡の下には大きな目が太陽を真正面に見て居た。 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・地極の氷の上に国旗を立てるのも、愉快だろうと思って見る。しかしそれにもやはり分業があって、蒸汽機関の火を焚かせられるかも知れないと思うと、enthousiasme の夢が醒めてしまう。 木村は為事が一つ片附いたので、その一括の書類を机の・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 母が立ち去った跡で忍藻は例の匕首を手に取り上げて抜き離し、しばらくは氷の光をみつめてきっとした風情であったが、またその下からすぐに溜息が出た,「匕首、この匕首……さきにも母上が仰せられたごとくあの刀禰の記念じゃが……さてもこれを見・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・そうして、ロシアの大平原からは氷が溶けた。 或る日、ナポレオンはその勃々たる傲慢な虚栄のままに、いよいよ国民にとって最も苦痛なロシア遠征を決議せんとして諸将を宮殿に集合した。その夜、議事の進行するに連れて、思わずもナポレオンの無謀な意志・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・あそこで大きな白熊がうろつき、ピングィン鳥が尻を据えて坐り、光って漂い歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありそうな海象が群がっている。あそこにまた昔話の磁石の山が、舟の釘を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き付けている地極の秘密が眠っている。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・寒夜裸になって氷の上に寝たら鯉までが感心して躍り上がったという。故郷に遺せる老いたる母を慰めたいとて狂的に奮闘せる一青年は一念のために江知勝を超越しカフェーを超越す。菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫