・・・パラパラ、頁をめくっていって、ふと、「汝もし己が心裡に安静を得る能わずば、他処に之を求むるは徒労のみ。」というれいの一句を見つけて、いやな気がした。悪い辻占のように思われた。こんどの旅行は、これは、失敗かも知れぬ。 列車が上諏訪に近づい・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・ されど、 憩いを知らぬ帆は、 嵐の中にこそ平穏のあるが如くに、 せつに狂瀾怒濤をのみ求むる也。 あわれ、あらしに憩いありとや。鶴は所謂文学青年では無い。頗るのんきな、スポーツマンである。けれども、恋人の森ち・・・ 太宰治 「犯人」
・・・そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ばして前面に何物をか求むるように顔を上げた。窪んだ眼にまさに没せんとする日が落ちて、頬冠りした手拭の破れから出た一束の白髪が凩に逆立って見える。再びヨボヨボと歩き出すと、ひとしきりの風が驀地に道・・・ 寺田寅彦 「凩」
・・・我という個霊の消え失せて、求むれども遂に得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司どるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇しく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪え・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・又子の方より言えば仮令い三十年二十五年以上に達しても、父母在すときは打明け相談して同意を求むるこそ穏なれ。法律は唯極端の場合に備うるのみ。親子の情は斯く水臭きものに非ず。呉々も心得置く可し。扨又結婚の上は仮令い命を失うとも心を金石の如くに堅・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・簡単なるものにつきて美を求むるは易く、複雑なるものは難し。沈黙せるものを写すは易く、活動せるものは難し。人間の思想、感情の単一なる古代にありて比較的によく天然を写し得たるは易きより入りたる者なるべし。俳句の初めより天然美を発揮したるも偶然に・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
イーハトヴは一つの地名である。しいて、その地点を求むるならば、それは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスがたどった鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠のはるかな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。じつ・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・決して卑しく求むべきではないし、最上とか何とか先入的な価値の概念は持つべきでないし、同時に、恋愛の本質に素直でそこから自分の誠実さが感じ理解出来るだけのものを余りなく得て全生活を浄め豊かにするだけの、視野の宏大な愛、人間、自分への信任が大切・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・我は彼に求むる所がなく、彼もまた我に求むる所がない。縦いまた樗牛と予との如く、ある関係が有っても、それは言うに足らぬ事であって、今これを人に告ぐる必要を見ない。かように今の文壇の思想の圏外に予は立っていて、予の思想の圏外に今の文壇は立ってい・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・という喧しい宣言のあとで、神を求むる心は忍びやかに人々の胸に育って行く。 キリストの復活を認容することのできなかった物質論は今や人類の常識である。神が七日にして世界を創造したという物語のごときは「物語」以上に何の権威をも持たない。処女懐・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫