・・・鼻先は土で汚れて居る。赤は恐ろしい威勢のいい犬であった。そうして十分に成長した。夜はよく足音を聞きつけて吠えた。昼間でも彼の目には胡乱なものは屹度吠えられた。次の秋のマチが来た。太十は例の如く瞽女の同勢を連れ込んだ。赤は異様な一群を見て忽ち・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・とこの世は汚れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と扇に軽く玉肌を吹く。「古き壺には古き酒があるはず、味いたまえ」と男も鵞鳥の翼を畳んで紫檀の柄をつけたる羽団扇で膝のあたりを払う。「古き世に酔・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・一方より見れば、生れて何らの人生の罪悪にも汚れず、何らの人生の悲哀をも知らず、ただ日々嬉戯して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美くしい感じがする、花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。たとえ多くの人に記憶せ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀のような恰好で散歩していた、先刻の海岸通りの裏辺りに当るように思えた。 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・おのおの貧富にしたがって、紅粉を装い、衣裳を着け、その装潔くして華ならず、粗にして汚れず、言語嬌艶、容貌温和、ものいわざる者も臆する気なく、笑わざるも悦ぶ色あり。花の如く、玉の如く、愛すべく、貴むべく、真に児女子の風を備えて、かの東京の女子・・・ 福沢諭吉 「京都学校の記」
・・・旅路にて汚れたりと覚しき衣服を纏いいる。左の胸に突込んだるナイフの木の柄現われおる。この男舞台の真中男。はあ。君はまだこの世に生きているな。永遠の洒落者め。君はまだホラチウスの書なぞを読んで世を嘲っているのかい。僕が物に感じるのを見て、・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・生き方にヒロイズムを描き出している。汚れをいとわないとか、古くさい結婚の形にしばられない感情の冒険とかいうことの現実をみると、結局は社会の経済生活の崩壊による女性の男への寄生的生活の合理化であり、広汎な売娼生活の合理化だということが分ります・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・自分はすすぐことの出来ぬ汚れを身に受けた。それほどの辱を人に加えることは、あの外記でなくては出来まい。外記としてはさもあるべきことである。しかし殿様がなぜそれをお聴きいれになったか。外記に傷つけられたのは忍ぶことも出来よう。殿様に棄てられた・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・谷間のように窪んだ所には、汚れた布団を敷いたように、雪が消え残っている。投げた烟草の一点の火が輪をかいて飛んで行くのを見送る目には、この外の景色が這入った。如何にも退屈な景色である。腰懸の傍に置いてある、読みさしの、黄いろい表紙の小説も、や・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠玉は依然として輝く、この光が尊いのである。珠を九仞の深きに投げ棄ててもただ皮相の袋の安き地にあらん事を願う衆人の心は無智のきわみである。さはあれわが保つ宝石の尊さを知らぬ人は気の毒を通り越して悲惨である、・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫