・・・それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ わたくしが東京を去ったのは明治三十年の九月であったが、出帆の日もまた乗込んだ汽船の名も今は覚えていない。わたくしは両親よりも一歩先に横浜から船に乗り、そして神戸の港で、後から陸行して来られる両親を待合したのである。 船は荷積をする・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・この間にわたくしは西洋に移り住もうと思立って、一たびは旅行免状をも受取り、汽船会社へも乗込の申込までしたことがあった。その頃は欧洲行の乗客が多いために三カ月位前から船室を取る申込をして置かねばならなかったのだ。わたくしは果してよくケーベル先・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・郵船会社の汽船は半分荷物船だから船足がおそいのに、なぜそれをえらんだのかと私が聞いたら、先生はいくら長く海の中に浮いていても苦にはならない、それよりも日本からベルリンまで十五日で行けるとか十四日で着けるとかいって、旅行が一日でも早くできるの・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生の告別」
・・・昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ こんな風だったから、瀬戸内海などを航行する時、後ろから追い抜こうとする旅客船や、前方から来る汽船や、帆船など、第三金時丸を見ると、厄病神にでも出会ったように、慄え上ってしまった。 彼女は全く酔っ払いだった。彼女の、コムパスは酔眼朦・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・そこは、サンムトリ山の古い噴火口の外輪山が、海のほうへ向いて欠けた所で、その小屋の窓からながめますと、海は青や灰いろの幾つもの縞になって見え、その中を汽船は黒いけむりを吐き、銀いろの水脈を引いていくつもすべっているのでした。 老技師はし・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・ ――日本の汽船へのるんだけれども、波止場は? あなた運んでは呉れないのか? 麻の大前垂をかけ、ニッケルの番号札を胸に下げて爺の赤帽は、ぼんやりした口調で、 ――波止場へは別だよ。と答えた。 ――遠い? ここから。 ・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・音羽の通まで牛車で運んで来て、鼠坂の傍へ足場を掛けたり、汽船に荷物を載せる Crane と云うものに似た器械を据え附けたりして、吊り上げるのである。職人が大勢這入る。大工は木を削る。石屋は石を切る。二箇月立つか立たないうちに、和洋折衷とか云・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・しかし我々の前の十年は、汽車、汽船、電信、電話、特に自動車の発達によって、我々の生活をほとんど一変した。飛行機、潜航艇等が戦術の上に著しい変化をもたらしたのもわずかこの十年以来のことである。その他百千の新発明、新機運。それが未曾有の素早さで・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
出典:青空文庫