・・・ 枕に沈める横顔の、あわれに、貴く、うつくしく、気だかく、清き芙蓉の花片、香の煙に消ゆよとばかり、亡き母上のおもかげをば、まのあたり見る心地しつ。いまはハヤ何をかいわむ。「母上。」 と、ミリヤアドの枕の許に僵れふして、胸に縋りて・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮のごとく漾いつつ。「口惜しいねえ。」 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みもならず、――金方の計らいで、――万松亭という汀なる料理店に、とにかく引籠る事にした。紫玉はた・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ と一声、時彦は、鬱し沈める音調もて、枕も上げで名を呼びぬ。 この一声を聞くとともに、一桶の氷を浴びたるごとく、全身の血は冷却して、お貞は、「はい。」 と戦きたり。 時彦はいともの静に、「お前、このごろから茶を断ッた・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 尉官は太く苛立つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、「汝、よく娶たな。」 お通は少しも口籠らで、「どうも仕方がございません。」 尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。「おい、謙三郎はど・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・……桔梗ヶ池へ身を沈める……こ、こ、この婆め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」 と言って、料理番は苦笑した。「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・その身に絡めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳し、水をきっと瞰下ろしたる、ときに寒冷謂うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈しき泡の吹き出ずるは老夫の沈める処と覚しく、薄氷は亀裂しおれり。・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・耳をそばだつるまでもなく堂をもるるはかれの美わしき声、沈める調なり。堂の闥を押さんとする時何心なく振り向けば十蔵はわが外套を肩にかけ片手にランプを持ちて事務室の前に立ちこなたをながめいたり。この時われかの貧しき少女が狂犬のうわさせしといいし・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 女の唇は堅く結ばれ、その眼は重々しく静かに据り、その姿勢はきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気に満されたり。男は萎れきったる様子になりて、「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあ汝の運は汝に任せてえ、おらが横車を云おう気は・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・草むらの萌草の厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪の花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地に、燃ゆる焔の色にて十字架を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・とウィリアムは又額を抑えて、己れを煩悶の海に沈める。海の底に足がついて、世に疎きまで思い入るとき、何処よりか、微かなる糸を馬の尾で摩る様な響が聞える。睡るウィリアムは眼を開いてあたりを見廻す。ここは何処とも分らぬが、目の届く限りは一面の林で・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫