・・・――甚太夫はそう思うと、日頃沈着な彼にも似合わず、すぐさま恩地の屋敷へ踏みこんで、勝負を決したいような心もちさえした。 しかし恩地小左衛門は、山陰に名だたる剣客であった。それだけにまた彼の手足となる門弟の数も多かった。甚太夫はそこで惴り・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・彼の言は、明晰に、口吃しつつも流暢沈着であった。この独白に対して、汽車の轟は、一種のオオケストラを聞くがごときものであった。 停車場に着くと、湧返ったその混雑さ。 羽織、袴、白襟、紋着、迎いの人数がずらりと並ぶ、礼服を着た一揆を思え・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ たッた独りやに「沈着にせい、沈着にせい」と云うて命令しとる様な様子が何やらおかしい思われた。演習に行てもあないに落ち付いておられん。人並みとは違た様子や。して、倒れとるものが皆自分の命令に従ごて来るつもりらしかった。それが大石軍曹や。」・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。 緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ が、この不しだらな夫人のために泥を塗られても少しも平時の沈着を喪わないで穏便に済まし、恩を仇で報ゆるに等しいYの不埒をさえも寛容して、諄々と訓誡した上に帰国の旅費まで恵み、あまつさえ自分に罪を犯した不義者を心から悔悛めさせるための修養・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・あたかも私の友人の家で純粋セッター種の仔が生れたので、或る時セッター種の深い長い艶々した天鵞絨よりも美くしい毛並と、性質が怜悧で敏捷こく、勇気に富みながら平生は沈着いて鷹揚である咄をして、一匹仔犬を世話をしようかというと、苦々しい顔をして、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・光代は傍に聞いていたりしが、それでもあの綱雄さんは、もっと若くって上品で、沈着いていて気性が高くって、あの方よりはよッぽどようござんすわ。と調子に確かめて膝押し進む。ホイ、お前の前で言うのではなかった。と善平は笑い出せば、あら、そういうわけ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・と妻の沈着き払った答。「何故開けた、どうして開けた」「委員会から帳簿を借してくれろと言って来ましたから開けて渡しました」とじろり自分の顔を見た。「何だって私の居ないのに渡した、え何だって渡した。怪からんことだ」と喚きつつ抽斗の中・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・でもあるまいものが、あわぬ詮索に日を消すより極楽は瞼の合うた一時とその能とするところは呑むなり酔うなり眠るなり自堕落は馴れるに早くいつまでも血気熾んとわれから信用を剥いで除けたままの皮どうなるものかと沈着きいたるがさて朝夕をともにするとなれ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・黄ばんだ柳の花を通して見た彼女――仮令一目でもそれが精しく細かく見たよりは、何となく彼女の沈着いて来たことや、自然に身体の出来て来たことや、それから全体としての女らしい姿勢を、反ってよく思い浮べることが出来た。 その晩、大塚さんは自分の・・・ 島崎藤村 「刺繍」
出典:青空文庫