・・・ 和田もとうとう沈黙を破った。彼はさっきから苦笑をしては、老酒ばかりひっかけていたのである。「何、嘘なんぞつくもんか。――が、その時はまだ好いんだ。いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田は僕も忘れたように、女とばかりしゃ・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ まっさきに沈黙を破ったのは、今も襟に顋を埋めた、顔色の好くないお絹だった。「何でもなかった。」「じゃきっとお母さんは、慎ちゃんの顔がただ見たかったのよ。」 慎太郎は姉の言葉の中に、意地の悪い調子を感じた。が、ちょいと苦笑し・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・自分の後継者であるべきものに対してなんとなく心置きのあるような風を見せて、たとえば懲しめのためにひどい小言を与えたあとのような気まずい沈黙を送ってよこした。まともに彼の顔を見ようとはしなかった。こうなると彼はもう手も足も出なかった。こちらか・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ 短い沈黙を経過する。儀式は皆済む。もう刑の執行より外は残っていない。 死である。 この刹那には、この場にありあわしただけの人が皆同じ感じに支配せられている。どうして、この黒い上衣を着て、シルクハットを被った二十人の男が、この意・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ と、娘が擂粉木の沈黙を破って、「誰か、見ていやしなかったかしら、可厭だ、私。」 と頤を削ったようにいうと、年増は杓子で俯向いて、寂しそうに、それでも、目もとには、まだ笑の隈が残って消えずに、「誰が見るものかね。踊よりか、町・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・梅子も民子もただ見回してはすすり泣きする。沈黙した三人はしばらく恨めしき池を見やって立ってた。空は曇って風も無い。奥の間でお通夜してくれる人たちの話し声が細々と漏れる。「いつまで見ていても同じだから、もう上がろうよ」 といって先に立・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者でなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。 二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・譬えば移住民が船に乗って故郷の港を出る時、急に他郷がこわくなって、これから知らぬ新しい境へ引き摩られて行くよりは、むしろこの海の沈黙の中へ身を投げようかと思うようなものである。 そこで女房は死のうと決心して、起ち上がって元気好く、項を反・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ それから、しばらく、星たちは沈黙をしていました。が、たちまち、一つの星が、「まだ、ほかに、働いているものはないか?」とききました。 その星は、目の見えない、運命をつかさどる星でありました。 下界のことを、いつも忠実に見守っ・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・それに東京棋師の面目も賭けられている、負けられぬ対局であったが、坂田にとっても十六年の沈黙の意味と「坂田将棋」の真価を世に問う、いわば坂田の生涯を賭けた一生一代の対局であった。昭和の大棋戦だと、主催者の読売新聞も宣伝した。ところが、坂田はこ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫