・・・ 赤土の泥濘を過ぎ、短い村落の家並にさしかかった。道のところどころに、雨あがりの大きい泥たんこが出来ている。私共二人、もう行手の丘の上に天主堂の大きく新しい城のような建物を望み何心なく喋りながら、一軒の床屋の前に通りかかった。床屋の前の・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・つまりお互いに歩く道は泥濘の多いことをよく知っていて、そこをちゃんと歩き通すには、どんな助けあいが互いに必要であり、それが与えられ与える可能性を持っているかどうかということに互いの関心の焦点がおかれる。 実際問題として婦人の解放は憲法と・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・それが人民の幸福の建設に避けがたい道であるというならば、泥濘も私たち人民は歩き終せるだけの勇気をもっている。 ところが、きょうの新聞に奇怪な投書が掲載された。モラトリアム発表前の十六日、正金銀行で、課長以上の行員たちが殆ど全部現金を五円・・・ 宮本百合子 「人間の道義」
・・・という風な我々の理解力ではうけがいがたい評価にそれ、反動的泥濘に陥ってしまった。 テエヌは、以上のようにバルザックの文体に対して与えられる可能のある殆どすべての非難を引き出した後、そのような「全くフランス的な、古典主義的な判断は、十七世・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・この間もニュースで、泥濘のなかを馬の口をとって一心不乱に前進している兵隊さんの顔を見て私は隆ちゃんのことを思いました。さぞ、こういう時もあるのだろうと思って。あなたの丈夫なのは分っているが、馬もどうぞ丈夫なように、と心から思います。お兄さん・・・ 宮本百合子 「二人の弟たちへのたより」
・・・粘土が泥濘になる。小舎の敷藁――若しあるとして――もぐちょぐちょであろう。斑の、いやに人間みたいな顔付の犬は、小舎の中にも居られず、さりとて鎖があるから好きな雨やどりの場所を求めることも出来ない。苦しまぎれに、自分の小舎の屋根の上に登って四・・・ 宮本百合子 「吠える」
・・・抜けようとしても、抜けられない泥濘の苦しさと混乱を、此の両足に感じる。何処へ行っても、祖国が足の下にあるだろう、地球の果にまで走ろうとしても、祖国の地面は、尚も、尚も、私の足跡を印させるだろう、私は此を歓ぶ。けれども、怖ろしい。涙が出るほど・・・ 宮本百合子 「無題」
・・・ やがて、泥濘とたのしい雨だれの響きで町中が充たされる春の雪解がはじまって、並木の菩提樹が芽立ったと思うと、北の国の春は情熱的に初夏の恍惚とする若緑に育ってゆく。 五月下旬になるとモスクワでもいくらか白夜がはじまって来る。夜の十二時・・・ 宮本百合子 「モスクワ」
・・・嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘踝を没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん。軌道の二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子などもて来れど、飲食わむとする人な・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫