・・・源叔父は櫓こぎつつ眼を遠き方にのみ注ぎて、ここにも浮世の笑声高きを空耳に聞き、一言も雑えず。「紀州を家に伴えりと聞きぬ、信にや」若者の一人、何をか思い出て問う。「さなり」翁は見向きもせで答えぬ。「乞食の子を家に入れしは何ゆえぞ解・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・しかし、暴虐に対する住民の憎悪は、白衛軍を助けている侵略的な日本軍に向って注ぎかえされた。栗本は、自分達兵卒のやらされていることを考えた。それは全く、内地で懐手をしている資本家や地元の手先として使われているのだ。――と、反抗的な熱情が涌き上・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・おしかは神棚から土器をおろして、種油を注ぎ燈心に火をともした。 両人はその灯を頼りに、またしばらく夜なべをつゞけた。 と、台所の方で何かごと/\いわす音がした。「こりゃ、くそッ!」おしかはうしろへ振り向いた。暗闇の中に、黄色の玉・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・彼が火の如き花の如き大文字は、淋漓たる熱血を仏国四千万の驀頭に注ぎ来れる也。 当時若しゾーラをして黙して己ましめんか、彼れ仏国の軍人は遂に一語を出すなくしてドレフューの再審は永遠に行われ得ざりしや必せり。彼等の恥なく義なく勇なきは、実に・・・ 幸徳秋水 「ドレフュー大疑獄とエミール・ゾーラ」
・・・炭素がその玻璃板の間から流れると、蝋燭の火は水を注ぎ掛けられたように消えた。 高瀬は戸口に立って眺めていた。 無邪気な学生等は学士の机の周囲に集って、口を開くやら眼を円くするやらした。学士がそのコップの中へ鳥か鼠を入れると直ぐに死ぬ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・したとき、あの人は、つと立ち上り、黙って上衣を脱いだので、私たちは一体なにをお始めなさるのだろうと不審に思って見ているうちに、あの人は卓の上の水甕を手にとり、その水甕の水を、部屋の隅に在った小さい盥に注ぎ入れ、それから純白の手巾をご自身の腰・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・と言いながら机の上の茶呑茶碗にウイスキイを注ぎ、「昔なら三流品なんだけど、でも、メチルではないから」 彼はぐっと一息に飲みほし、それからちょっちょっと舌打ちをして、「まむし焼酎に似ている」と言った。 私はさらにまた注いでやりなが・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ このようにして、作者は、ある特殊な人間を試験管に入れて、これに特殊な試薬を注ぎ、あるいは熱しまた冷やし、あるいは電磁場に置き、あるいは紫外線X線を作用させあるいはスペクトル分析にかける。そうしてこれらに対する反応によってその問題の対象・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・夏の夕方には、きまって打ち水のあまりがこの石燈籠の笠に注ぎかけられた。石にさびをつけるためだという話であった。それからまた低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽を着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫