・・・宇平は側で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。 黙って衝っ伏して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡げた。みはった目は異様に赫いている。そして一声「檀那、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・両方の目から涙がよごれた顔の上に流れた。顔の色は蒼ざめた。それから急にその顔に微笑の影が浮かんで、口から「ユリア、ユリア」と二声の叫が洩れた。ユリアとは女房の名である。ツァウォツキイは小刀の柄を両手で握って我と我胸に衝き挿した。ツァウォツキ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・血は流れて草の色を変えている。魂もまた身体から居どころを変えている。切り裂かれた疵口からは怨めしそうに臓腑が這い出して、その上には敵の余類か、金づくり、薄金の鎧をつけた蝿将軍が陣取ッている。はや乾いた眼の玉の池の中には蛆大将が勢揃え。勢いよ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・枯木は山の方から流れて来る。「雨、こんこん降るなよ。 屋根の虫が鳴くぞよ。」 灸は柱に頬をつけて歌を唄い出した。蓑を着た旅人が二人家の前を通っていった。屋根の虫は丁度その濡れた旅人の蓑のような形をしているに相違ないと灸は・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・私の心には前の続きでなおさまざまの姿や考えが流れていました。で、自分では気がつきませんでしたが、私はいつも考えにふける時のように人を寄せつけないムズかしい顔をしていたのです。私がそういう顔をしている時には妻は決して笑ったりハシャイだりはでき・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫