・・・ その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。 × × ・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・が、これは思わず彼が手を伸ばして、捉えようとする間もなく、眼界から消えてしまった。消える時に見ると、裙子は紗のように薄くなって、その向うにある雲の塊を、雲母のように透かせている。 その後からは、彼の生まれた家の後にある、だだっ広い胡麻畑・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・仁右衛門は川森の言葉を聞きながら帳場の姿を見守っていたが、やがてそれが佐藤の小屋に消えると、突然馬鹿らしいほど深い嫉妬が頭を襲って来た。彼れはかっと喉をからして痰を地べたにいやというほどはきつけた。 夫婦きりになると二人はまた別々になっ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・が、燃さしの軸を、消えるのを待って、もとの箱に入れて、袂に蔵った。 乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸を何にしよう…… 蓋し、この年配ごろの人数には漏れない、判官贔屓が、その古跡を、取散らすまい、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体一ツないものに・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・で、東洋の美術国という日本の古美術品も其実三分の一は茶器である、然るにも係らず、徒に茶器を骨董的に弄ぶものはあっても、真に茶を楽む人の少ないは実に残念でならぬ、上流社会腐敗の声は、何時になったらば消えるであろうか、金銭を弄び下等の淫楽に・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・それゆえおとよが家に帰って二月たたないうちに、省作に対するおとよの噂はいつ消えるとなしに消えた。 胸にやるせなき思いを包みながら、それだけにたしなんだおとよは、えらいものであるが、見る人の目から見れば決して解らぬのではない。 燃える・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・どうともなるようになれ、自分は、どんな難局に当っても、消えることはなく、かえってそれだけの経験を積むのだと、初めから焼け気味のある僕だから、意地にもわざと景気のいい手紙を書き、隣りの芸者にはいろいろ世話になるが、情熱のある女で――とは、その・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・度再板達磨の絵袋入あひかはらず御風味被成下候様奉希候以上 以上の文句の通りに軽々と疱瘡痲疹の大厄を済まして芥子ほどの痘痕さえ残らぬようという縁喜が軽焼の売れた理由で、淡島屋の屋号のあわのように消えるというもまた淡島屋が殊に繁昌した所・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 鴎外の花園町の家の傍に私の知人が住んでいて、自分の書斎と相面する鴎外の書斎の裏窓に射す燈火の消えるまで競争して勉強するツモリで毎晩夜を更かした。が、どうしてもそれまで起きていられないので燈火の消える時刻を突留める事が出来なかった。或る・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
出典:青空文庫