・・・――露柴は涼しい顔をしながら、猪口を口へ持って行った。その猪口が空になると、客は隙かさず露柴の猪口へ客自身の罎の酒をついだ。それから側目には可笑しいほど、露柴の機嫌を窺い出した。……… 鏡花の小説は死んではいない。少くとも東京の魚河岸に・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・目もまた涼しい黒瞳勝ちだった。心もち上を向いた鼻も、……しかしこんなことを考えるのはやはり恋愛と云うのであろうか?――彼はその問にどう答えたか、これもまた記憶には残っていない。ただ保吉の覚えているのは、いつか彼を襲い出した、薄明るい憂鬱ばか・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・一つの道を踏みかけては他の道に立ち帰り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・待石――巨石の割目に茂った、露草の花、蓼の紅も、ここに腰掛けたという判官のその山伏の姿よりは、爽かに鎧うたる、色よき縅毛を思わせて、黄金の太刀も草摺も鳴るよ、とばかり、松の梢は颯々と、清水の音に通って涼しい。 けれども、涼しいのは松の下・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・――感心、娘が、こん度は円髷、――あの手がらの水色は涼しい。ぽう、ぽっぽ――髷の鬢を撫でつけますよ。女同士のああした処は、しおらしいものですわね。酷いめに逢うのも知らないで。……ぽう、ぽっぽ――可哀相ですけど。……もう縁側へ出ましたよ。男が・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・予はことばをおしだすようにして、夏になればずいぶん東京あたりから人がきますか、夏は涼しいでしょう。鵜島には紅葉がありますか。鵜島まではなん里くらいありますなど話しかけてみたが、娘はただ、ハイハイというばかり、声を聞きながら形は見えないような・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・東京から見るとここは余程涼しいなア」「ウン今夜は少し涼しい。これでも蚊帳なしという訳にはいかんよ。戸を締めると出るからな」 細君は帰って終う。岡村が蚊帳を釣ってくれる。予は自ら蒲団を延べた。二人は蚊帳の外で、暫く東京なる旧友の噂をす・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ ある日のこと、正雄さんは、ただ一人で海の方から吹いてくる涼しい風に吹かれながら波打ちぎわを、あちらこちらと小石や貝がらを見つけながら歩いて、「見つかれしょ、見つかれしょ、己の目に見つかれしょ。真珠の貝がら見つかれしょ。」といいまし・・・ 小川未明 「海の少年」
・・・ そのとき、二人の目には、水の清らかな、草の葉先がぬれて光る、しんとした、涼しい風の吹く川面の景色がありありとうかんだのであります。 ちょうど昼ごろでありました。弟が、外から、だれか友だちに、「海ぼたる」だといって、一匹の大きなほた・・・ 小川未明 「海ぼたる」
・・・ガラスの簾を売る店では、ガラス玉のすれる音や風鈴の音が涼しい音を呼び、櫛屋の中では丁稚が居眠っていました。道頓堀川の岸へ下って行く階段の下の青いペンキ塗の建物は共同便所でした。芋を売る店があり、小間物屋があり、呉服屋があった。「まからんや」・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫