・・・ その時、ふっと私は、久方振りで、涼しい幸福感を味わいました。 その夜おそく、私は夫の蚊帳にはいって行って、「いいのよ、いいのよ。なんとも思ってやしないわよ。」 と言って、倒れますと、夫はかすれた声で、「エキスキュウズ、・・・ 太宰治 「おさん」
・・・しかし、乗客はみな、そんな面倒なことなどは考えないで「ああ涼しい」という。科学的な客観的な言葉を用いたがる現代人は「空気がちがって来た」というのである。一と月後には下の平野におとずれるはずの初秋がもうここまで来ているのである。 沓掛駅の・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・土用の日ざしが狭い土堤いっぱいに涼しい松の影をこしらえて飽き足らず、下の蕃藷畑に這いかかろうとする処に大きな丸い捨石があって、熊さんのためには好い安楽椅子になっている。もう五十を越えているらしい。一体に逞しい骨骼で顔はいつも銅のように光って・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・「え、どこか涼しいところで風呂に入って御飯を食べましょう。途中少し暑いですけれど、少しずつ片蔭になってきますから」 それから古道具屋などの多い町を通って、二人は川の縁へ出てきた。道太が小さい時分、泳ぎに来たり魚を釣ったりした川で、今・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・愁を溶いて錬り上げし珠の、烈しき火には堪えぬほどに涼しい。愁の色は昔しから黒である。 隣へ通う路次を境に植え付けたる四五本の檜に雲を呼んで、今やんだ五月雨がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団を捨てて椽より両足をぶら下げている。「あの木立・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・またこの講演が終って場外に出て涼しい風に吹かれでもすれば、ああ好い心持だという意識に心を専領されてしまって講演の方はピッタリ忘れてしまう。私から云えば全くありがたくない話だが事実だからやむをえないのである。私の講演を行住坐臥共に覚えていらっ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・殊にこの香ばしい涼しい匂いは酸液から来る匂いであるから、酸味の強いものほど香気が高い。柚橙の如きはこれである。その他の一般の菓物は殆ど香気を持たぬ。○くだものの旨き部分 一個の菓物のうちで処によりて味に違いがある。一般にいうと心の方より・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・もう涼しいからね」 ジョバンニは立って窓をしめお皿やパンの袋を片附けると勢よく靴をはいて「では一時間半で帰ってくるよ。」と云いながら暗い戸口を出ました。四、ケンタウル祭の夜 ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびし・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 遠くに白山山脈の見えるその村は、水田ばかりであったから、七、八月のむし暑さは実にひどかった。涼しいはずの茅屋根の下でも、吹きとおす風がないのだから、汗ふき手拭がじきぬれた。老人は、毎日毎日汗をふきながら机に向っているわたしを可哀そうに・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・それを歩いて行くと、涼しいと思って門口を出ても、行き着くまでに汗になる。その事を思ったのである。 縁側に出て顔を洗いながら、今朝急いで課長に出すはずの書類のあることを思い出す。しかし課長の出るのは八時三十分頃だから、八時までに役所へ行け・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫