・・・そして立花は伊勢は横幅の渾沌として広い国だと思った。宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。 その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・同じ燻ぶった洋燈も、人の目鼻立ち、眉も、青、赤、鼠色の地の敷物ながら、さながら鶏卵の裡のように、渾沌として、ふうわり街燈の薄い影に映る。が、枯れた柳の細い枝は、幹に行燈を点けられたより、かえってこの中に、処々すっきりと、星に蒼く、風に白い。・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・むかし、ばらばらに取り壊し、渾沌の淵に沈めた自意識を、単純に素朴に強く育て直すことが、僕たちの一ばん新しい理想になりました。いまごろ、まだ、自意識の過剰だの、ニヒルだのを高尚なことみたいに言っている人は、たしかに無智です。」「やあ。」男・・・ 太宰治 「花燭」
・・・おおむかし、まだ世界の地面は固まって居らず、海は流れて居らず、空気は透きとおって居らず、みんなまざり合って渾沌としていたころ、それでも太陽は毎朝のぼるので、或る朝、ジューノーの侍女の虹の女神アイリスがそれを笑い、太陽どの、太陽どの、毎朝ごく・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・同時に、それは彼の生涯の渾沌を解くだいじな鍵となった。形式には、「雛」の影響が認められた。けれども心は、彼のものであった。原文のまま。 おかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがって間もなくのことでございますから、どう・・・ 太宰治 「葉」
・・・なにも、わからない。渾沌のかたまりだ。ぬるま湯だ。負けた、負けた。誰にも劣る。苦悩さえ、苦悩さえ、私のは、わけがわからない。つきつめて、何が苦しと言うならず。冗談よせ! 自動車は、やはり、湖の岸をするする走って、やがて上諏訪のまちの灯が、ぱ・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・ふたりは、お互いに、ふたり切りになりたくてたまらないのに、でも、それを相手に見破られるのが羞しいので、空の蒼さ、紅葉のはかなさ、美しさ、空気の清浄、社会の混沌、正直者は馬鹿を見る、等という事を、すべて上の空で語り合い、お弁当はわけ合って食べ・・・ 太宰治 「犯人」
・・・民衆という混沌の怪物は、その点、正確である。きわだってすぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。かつて祝福されたる人。ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウストの・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・ニュートンが一見捕捉しがたいような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括される事を知った時には、実際ヴォルテーアの謳ったように、神の声と共に渾沌は消え、闇の中に隠れた自然の奥底はその帷帳を開かれて、玲瓏たる天界が目前に現・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・ 錯綜した事象の渾沌の中から主要なもの本質的なものを一目で見出す力のないものには、こうした描写は出来ないであろう。これはしかし、俳諧にも科学にも、その他すべての人間の仕事という仕事に必要なことかもしれないのである。 西鶴について・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
出典:青空文庫