・・・文学者は科学の方法も事実も知らなくても少しもさしさわりはないと考えられ、科学者は文学の世界に片足をも入れるだけの係わりをもたないで済むものと思われて来たようである。 しかし二つの世界はもう少し接近してもよく、むしろ接近させなければならな・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・しかしそれはまずそれとして何もそんなに心配せずとも或種類の芸術に至っては決して二宮尊徳の教と牴触しないで済むものが許多もある。日本の御老人連は英吉利の事とさえいえば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽えんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚にふかしている。 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすっ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・一言言やア済むじゃアないか」 西宮に叱られて、小万は顔を背向けながら口をつぐんだ。「小万さん、いろいろお世話になッたッけねえ」と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・益な心的要素が何れ程まで修練を加えたらものになるか、人生に捉われずに、其を超絶する様な所まで行くか、一つやッて見よう、という心持で、幾多の活動上の方面に接触していると、自然に、人生問題なぞは苦にせずに済む。で、この方面の活動だと、ピタッと人・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・ そうして一まわり済むと、先生はだんだんみんなの道具をしまわせました。 それから「ではここまで。」と言って教壇に立ちますと一郎がうしろで、「気をつけい。」と言いました。そして礼がすむと、みんな順に外へ出てこんどは外へならばずにみ・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・だけ丈夫に育てること、それには林間学校を拵えたり、工場付属の療養所、それから転地療養、それから現在は病気になっていないけれども、このまま働いて行けば病気になってしまうという人達は、昼間は働くが、仕事が済むと夜間療養所というものがあってそこへ・・・ 宮本百合子 「ソヴェト・ロシアの素顔」
・・・そんな事をして、応募した作者に済むか。作者にも済むまいが、こっちへも済むまいと、木村は思った。 木村は悪い意味でジレッタントだと云われているだけに、そんな目に逢って、面白くもない物を読まないでも、生活していられる。兎に角この一山を退治る・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・「抛っといてそれで済むもんならええわさ。それより、お前どこで寝せるぞ、奥の間か?」「小屋へ置いときゃええ。」「たあいもないお前、あんとこで死なれてみい。五月になったら蚕さん夜養せんならんのに誰が恐うて行くもんがあるぞ。お前の阿呆・・・ 横光利一 「南北」
・・・強調すべき点は気が済むまでも詳しく書こうとする。そのために空虚な語のはいって来ることには気づかない。従って多くを示唆する少ない語の代わりに、少なくを説明しようとする多くの語がある。しかも熱に浮かされた自分にはその空虚が充溢に見えるのである。・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫