・・・何省書記官正何位という幾字は、昔気質の耳に立ち優れてよく響き渡り、かかる人に親しく語らうを身の面目とすれば、訪われたるあとよりすぐに訪い返して、ひたすらになお睦まじからんことを願えり。才物だ。なかなかの才物だとしきりに誉め称やし、あの高ぶら・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・なるほど二人は内密話しながら露繁き田道をたどりしやも知れねど吉次がこのごろの胸はそれどころにあらず、軍夫となりてかの地に渡り一かせぎ大きくもうけて帰り、同じ油を売るならば資本をおろして一構えの店を出したき心願、少し偏屈な男ゆえかかる場合に相・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・そして、ゼーヤから掘りだしてきた砂金を代りにポケットへしのばして、また、河を渡り、国外へ持ち去った。 今は酒は珍らしくはない。国内で作られている。 今は、五カ年計劃の実行に忙がしかった。能率増進に、職場と職場が競争した。贅沢品や、化・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 憫むべし晩成先生、嚢中自有レ銭という身分ではないから、随分切詰めた懐でもって、物価の高くない地方、贅沢気味のない宿屋を渡りあるいて、また機会や因縁があれば、客を愛する豪家や心置ない山寺なぞをも手頼って、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州の・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒五臓六腑へ浸み渡りたり それつらつらいろは四十七文字を按ずる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・しまいには、その家屋敷も人手に渡り、子息は勘当も同様になって、みじめな死を死んで行った。私はあのお爺さんが姉娘に迎えた養子の家のほうに移って、紙問屋の二階に暮らした時代を知っている。あのお爺さんが、子息の人手に渡した建物を二階の窓の外になが・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・自分でも忘却してしまいましたが、私自身が、女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被りとった・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ スイスあたりの山のホテルを想わせるような帝国ホテルは外側から観賞しただけで梓川の小橋を渡り対岸の温泉ホテルという宿屋に泊った。新築別館の二階の一室に落ちついた頃は小雨が一時止んで空が少し明るくなった。 窓際の籐椅子に腰かけて、正面・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・兎に角一同自動車に乗ろうとする間際になって、ふと震災後向島はどんなになっているだろうと言うような事から、始めて車を東に向けさせることにしたが、さて吾妻橋を渡り枕橋を過ると、またしても行先が定まらないので、已むことを得ず百花園という事にきめた・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽かなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩うてまた鏡に向う。河のあなたに烟る柳の、果ては空とも野とも覚束なき間より洩れ出づる・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫