・・・ そう感ずると、自分の経験の貧困に対して、悔恨の情が湧くのであります。高い山に登らなかったのが、その一つでした。山岳美に恵まれた日本に生れながら、しかも子供の時より国境の山々を憧憬したものを。なぜ足の達者なうちに踏破を試みなかったか、こ・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・ 主人の憤怒はやや薄らいだらしいが、激情が退くと同時に冷透の批評の湧く余地が生じたか、「そちが身を捨てましても、と云って、ホホホ、何とするつもりかえ。」と云って冷笑すると、女は激して、「イエ、ほんとに身を捨てましても」と・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・殊に新聞紙の論説の如きは奇想湧くが如く、運筆飛ぶが如く、一気に揮洒し去って多く改竄しなかったに拘らず、字句軒昂して天馬行空の勢いがあった。其一例を示せば、 我日本国の帝室は地球上一種特異の建設物たり。万国の史を閲読するも此の如き建設・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・誰でもかれでも、このお化け話とやらには、興味が湧くらしい。一つの刺戟でしょうかな。それから、これは怪談ではないけれど、「久原房之助」の話、おかしい、おかしい。 午後の図画の時間には、皆、校庭に出て、写生のお稽古。伊藤先生は、どうして私を・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・耳に響くはただ身を焼く熱に湧く血の音と、せわしい自分の呼吸のみである。何者とも知れぬ権威の命令で、自分は未来永劫この闇の中に封じ込められてしまったのだと思う。世界の尽きる時が来ても、一寸もこの闇の外に踏み出すことは出来ぬ。そしていつまで経っ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・常に勝る豊頬の色は、湧く血潮の疾く流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢の毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿したり。 白き香りの鼻を撲って、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・おおそれだ、その酒の湧く、金の土に交る海の向での」とシワルドはウィリアムを覗き込む。「主が女に可愛がられたと云うのか」「ワハハハ女にも数多近付はあるが、それじゃない。ボーシイルの会を見たと云う事よ」「ボーシイルの会?」「知ら・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・自然はあれに使われて、あれが望からまた自然が湧く。疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです。七、北十字とプリオシン海岸「お・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・そんなときみんなはいつでも、西の山の中の湯の湧くとこへ行って、小屋をかけて泊って療すのでした。 天気のいい日に、嘉十も出かけて行きました。糧と味噌と鍋とをしょって、もう銀いろの穂を出したすすきの野原をすこしびっこをひきながら、ゆっくりゆ・・・ 宮沢賢治 「鹿踊りのはじまり」
出典:青空文庫