・・・ 旅行下手というものは、旅行の第一日に於て、既に旅行をいやになるほど満喫し、二日目は、旅費の殆んど全部を失っていることに気がつき、旅の風景を享楽するどころか、まことに俗な、金銭の心配だけで、へとへとになり、旅行も地獄、這うようにして女房・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・漢陽の春の景色を満喫しよう。」 魚容は、垂幕を排して部屋の窓を押しひらいた。朝の黄金の光が颯っと射し込み、庭園の桃花は、繚乱たり、鶯の百囀が耳朶をくすぐり、かなたには漢水の小波が朝日を受けて躍っている。「ああ、いい景色だ。くにの女房・・・ 太宰治 「竹青」
・・・ その夜は、所謂地方文化の粋を満喫した。 れいのあの、きれいな声をした年増の女中は、日が暮れたら、濃い化粧をして口紅などもあざやかに、そうしてお酒やらお料理やらを私どもの部屋に持ち運んで来て、大旦那の言いつけかまたは若旦那の命令か知・・・ 太宰治 「母」
・・・劇中の人物に自己を投射しあるいは主人公を自分に投入することによって、その劇中人物が実際の場合に経験するであろうところの緊張とそれに次いで来るように設計された弛緩とを如実に体験すると同等の効果を満喫して涙を流しはなをすする、と同時に泣くことの・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・今日の女性が、結婚の科学をも十分わきまえて、ますます強く美しい肉体の歓びをも満喫する生活を持ってゆくとすれば、それは本当にうれしいと思う。 だけれども、そうして優生結婚、健全結婚が慫慂されるとき、今日の結婚論は、人間と人間との間にある愛・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
・・・ 幸福感というものの高い質は、主我的な飽満の感覚、満喫感と同じでないというのも面白い事実である。むしろ美の感覚を通じたものであることは、尽きぬ暗示をふくんでいると思う。美が固定した静的なものでなければならないという今日の若い女のひとはす・・・ 宮本百合子 「幸福の感覚」
・・・訳出されているのは序文だけである由だが、バッハオーフェンの思索とその方法と表現とのかかる古典的特色は満喫し得る。ギリシア神話と英雄伝とを日常生活の伝統に持っていない日本人にとっては、全く訳者の云われている通り訳すにも労多く、感情をもって理解・・・ 宮本百合子 「先駆的な古典として」
・・・バルザックの全生涯、全芸術の最も大きな骨組みをなす矛盾は、彼が自身の現実生活で満喫した社会悪、階級権力の偽瞞に対し常に熱のつよい憤懣の状態にあり、この社会を人間の生産力、才能その他を活かし得るところとするためには「社会科学を全くつくりかえね・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・ 更に文学は、この一般人間的感情の上に立ちつつ、現実の人生の姿として、或る親はそのわが子可愛ゆさの心持をあらゆる明暮の心づかいに表現して、親も子ともども互の愛に満喫し得ているのに、一方ではどうして親心としては同じ思いの或る親が、我が子を・・・ 宮本百合子 「夜叉のなげき」
・・・ 私は東山の麓に住んでいた関係もあって京都の樹木の美しさを満喫することができた。 新緑のころの京都は、実際あわただしい気分にさせられる。疎水端の柳が芽をふいたと思うと、やがて次から次へといろいろな樹が芽をふき始める。それが少しず・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫