・・・この満場爪も立たない聴衆の前で椿岳は厳乎らしくピヤノの椅子に腰を掛け、無茶苦茶に鍵盤を叩いてポンポン鳴らした。何しろ洋楽といえば少数の文明開化人が横浜で赤隊の喇叭を聞いたばかりの時代であったから、満場は面喰って眼を白黒しながら聴かされて煙に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・本当の恋を囁いている間に自身の芸術家の虫が、そろそろ頭をもたげて来て、次第にその虫の喜びのほうが増大して、満場の喝采が眼のまえにちらつき、はては、愛慾も興覚めた、という解釈も成立し得ると思います。まことに芸術家の、表現に対する貪婪、虚栄、喝・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・えに飛び出し、審判の制止の声も耳にはいらず、懸命にはしってはしってついに百米、得意満面ゴールに飛び込み、さて写真班のフラッシュ待ちかまえ、にっと笑ってみるのだが、少し様子がちがって、一つの喝采もなし、満場の人、みな気の毒そうにその選手の顔を・・・ 太宰治 「答案落第」
・・・ああ、かの壇上の青黒き皮膚、痩狗そのままに、くちばし突出、身の丈ひょろひょろと六尺にちかき、かたち老いたる童子、実は、れいの高い高いの立葵の精は、この満場の拍手、叫喚の怒濤を、目に見、耳に聞き、この奇現象、すべて彼が道化役者そのままの、おか・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・と叫ばせ、満場を総立ちにさせ、陪審官一斉に靴磨きの「無罪」を宣言させ、そうして狂喜した被告が被告席から海老のようにはね出して、突然の法廷侵入者田代公吉と海老のようにダンスを踊らせさえすれば、それでこの「与太者ユーモレスク、四幕、十一景」の目・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・咆哮し終ってマットン博士は卓を打ち式場を見廻しました。満場森として声もなかったのです。博士は続けました。「讃うべきかな神よ。神はまことにして変り給わない、神はすべてを創り給うた。美しき自然よ。風は不断のオルガンを弾じ雲はトマトの如く又馬・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・と、明治四十年代に、桑田熊蔵工学博士が議会でアッピールして満場水をうったようになった、と記録されているのをみても分る。また細井和喜蔵の「女工哀史」は日本の悲劇的記録である。第一次ヨーロッパ大戦後に出来た国際連盟の世界労働問題の専門部では、日・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ ドッと云う満場の笑い。「なおいいじゃねえか!」と云う声がした。又それで笑う。 ――ソラ! 諸君はそうやって笑う。だがそれは一部に今なお信ずべからざる事実としてある事実なんだ。又ある村では一致して集団農場に入ることを拒絶した。何故か・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 小波瀾が納まると、再び、待ちくたびれてどんよりとした重苦しさが場内に拡がった、そこへ不意にパッと満場の電燈が打った。わーというような無邪気な声と笑いが一斉に低いながら湧きおこった。国技館でも灯が入った刹那にはやはり罪のない歓声が鉄傘を・・・ 宮本百合子 「待呆け議会風景」
出典:青空文庫