・・・ 満月が太郎のすぐ額のうえに浮んでいた。満月の輪廓はにじんでいた。めだかの模様の襦袢に慈姑の模様の綿入れ胴衣を重ねて着ている太郎は、はだしのままで村の馬糞だらけの砂利道を東へ歩いた。ねむたげに眼を半分とじて小さい息をせわしなく吐きながら・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ちょうど満月であった。青ずんだ空にはまっ白な漣雲が流れて、大理石の大伽藍はしんとしていた。そこらにある電燈などのないほうがよさそうにも思われた。ドーム前の露店で絵はがきやアルバムを買った。売り子は美しい若い女で軽快な仏語をさえずっていた。・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・のグループが北村清吉を代表として部落委員会らしいものを組織する話をもち出してくるのであるが、この月夜の晩、彼プロレタリア作家の心は「この一言でまるで満月のようにふくれてしまった。」そしてただちに「同志Tよ。僕の煩悶は無駄であった」と安心し、・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・ この日没と満月の出の間、非常に短く、月は東に日は西という感じが、街を歩いて居る自分にした。「七銭で結構だよ」「いいえ! 駄目駄目」 リンゴを二つ持って、カーチーフをかぶった若い女が、大道商人とかけ合って居る。・・・ 宮本百合子 「一九二七年八月より」
・・・ホテルの木立の間に父の筆で、雲を破って輝き出した満月の絵が描加えられてある。父は当時いつも「無声」という号をつかい、隷書のような書体でサインして居る。 書簡註。父は当時三十七歳。旧藩主上杉伯の伴侶としてイギリスに旅立っ・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
出典:青空文庫