・・・かつ溝川にも、井戸端にも、傾いた軒、崩れた壁の小家にさえ、大抵皆、菖蒲、杜若を植えていた。 弁財天の御心が、自ら土地にあらわれるのであろう。 忽ち、風暗く、柳が靡いた。 停車場へ入った時は、皆待合室にいすくまったほどである。風は・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・(決意を示し、衣紋私がお前と、その溝川へ流れ込んで、十年も百年も、お前のその朝晩の望みを叶えて上げましょう。人形使 ややや。夫人 先生、――私は家出をいたしました。余所の家内でございます。連戻されるほどでしたら、どこの隅にも入れまし・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 菜の花畠、麦の畠、そらまめの花、田境の榛の木を籠める遠霞、村の児の小鮒を逐廻している溝川、竹籬、薮椿の落ちはららいでいる、小禽のちらつく、何ということも無い田舎路ではあるが、ある点を見出しては、いいネエ、と先輩がいう。なるほど指摘され・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ そのころ、わたくしはわが日誌にむかしあって後に埋められた市中溝川の所在を心覚に識して置いたことがある。即次の如くである。 京橋区内では○木挽町一、二丁目辺の浅利河岸○新富町旧新富座裏を流れて築地川に入る溝渠○明石町旧居留地の中央を・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・三門の町を流れる溝川の水も物洗うには、もう冷たくなり過ぎているであろう。 待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁を醸す。郷愁ほど情緒の美しきものはない。長くわたくしが巴里の空を忘れ得ぬのもこの情緒のなすところであろう。 ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 毎夜連れ立って、ふけそめる本所の町、寺と倉庫の多い寂しい道を行く時、案外暖く、月のいい晩もあった。溝川の小橋をわたりながら、鳴き過る雁の影を見送ることもあった。犬に吠えられたり、怪しげな男に後をつけられて、二人ともども息を切って走った・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ ところが駐屯して来た軍隊は、その学校の表門にかけてある看板が、生意気だ、今頃英学塾というような敵性語を教える看板を麗々しくかけておくのは国賊だと、その看板をはずして前の溝川へ投げ込んでしまった。そしてそのあとへ何々部隊と、番号の長い板・・・ 宮本百合子 「結集」
出典:青空文庫