・・・といって魚を獲って活計を立てる漁師とは異う。客に魚を与えることを多くするより、客に網漁に出たという興味を与えるのが主です。ですから網打だの釣船頭だのというものは、洒落が分らないような者じゃそれになっていない。遊客も芸者の顔を見れば三弦を弾き・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ このあたりはすべて漁師の住居である。赤ん坊を竹籠へ入れて、軒へぶらぶら釣り下げて、時々手を挙げて突きながら、網の破れをかがっている女房がある。縁先の蓆に広げた切芋へ、蠅が真っ黒に集って、まるで蠅を干したようになっているのがある。だけれ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・これらこそ安易の夢、無智の快楽、十年まえ、太陽の国、果樹の園をあこがれ求めて船出した十九の春の心にかえり、あたたかき真昼、さくらの花の吹雪を求め、泥の海、蝙蝠の巣、船橋とやらの漁師まちより髭も剃らずに出て来た男、ゆるし給え。」 痩躯、一・・・ 太宰治 「喝采」
・・・春になったら房州南方に移住して、漁師の生活など見ながら保養するのも一得ではないかと思います。いずれは仕事に区切りがついたら萱野君といっしょに訪ねたいと思います。しばらく会わないので萱野君の様子はわからない。きょう、只今徹夜にて仕事中、後略の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・房州あたりの漁師まちの感じである。「お客が多いのかね。」「いいえ、もう駄目です。九月すぎると、さっぱりいけません。」「君は、東京のひとかね。」「へへ。」白髪の四角な顔した番頭は、薄笑いした。「福田旅館は、ここでは、いいほ・・・ 太宰治 「佐渡」
暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。 市中は物のにほひや夏の月 凡兆 いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あ・・・ 太宰治 「天狗」
始めてこの浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であった。浜へ汽船が着いても宿引きの人は来ぬ。独り荷物をかついで魚臭い漁師町を通り抜け、教わった通り防波堤に沿うて二町ばかりの宿の裏門を、やっとくぐった時、朧の門脇に捨てた貝・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・そこいらの漁師の神さんが鮪を料理するよりも鮮やかな手ぶりで一匹の海豹を解きほごすのであるが、その場面の中でこの動物の皮下に蓄積された真白な脂肪の厚い層を掻き取りかき落すところを見ていた時、この民族の生活のいかに乏しいものであるかということ、・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・宿の主婦の育てていた貰い子で十歳くらいの男の子があったが、この子の父親は漁師である日鮪漁に出たきり帰って来なかったという話であった。発動機船もなく天気予報の無線電信などもなかった時代に百マイルも沖へ出ての鮪漁は全くの命懸けの仕事であったに相・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・先生も何だかわからなかったようだが漁師の頭らしい洋服を着た肥った人がああいるかですと云った。あんまりみんな甲板のこっち側へばかり来たものだから少し船が傾いた。風が出てきた。何だか波が高くなってきた。東も西も海だ。向うにもう北・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫