・・・ことに夜網の船の舷に倚って、音もなく流れる、黒い川をみつめながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、いかに自分は、たよりのないさびしさに迫られたことであろう。 大川の流れを見るごとに、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠の声とに暮れて・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・始は水の泡のようにふっと出て、それから地の上を少し離れた所へ、漂うごとくぼんやり止りましたが、たちまちそのどろりとした煤色の瞳が、斜に眥の方へ寄ったそうです。その上不思議な事には、この大きな眼が、往来を流れる闇ににじんで、朦朧とあったのに関・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 黄昏や、早や黄昏は森の中からその色を浴びせかけて、滝を蔽える下道を、黒白に紛るる女の姿、縁の糸に引寄せられけむ、裾も袂も鬢の毛も、夕の風に漂う風情。 十八「おお、あれは。」「お米でございますよ、あれ、旦・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 大波に漂う小舟は、宙天に揺上らるる時は、ただ波ばかり、白き黒き雲の一片をも見ず、奈落に揉落さるる時は、海底の巌の根なる藻の、紅き碧きをさえ見ると言います。 風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 鼻のさきに漂う煙が、その頸窪のあたりに、古寺の破廂を、なめくじのように這った。「弱え人だあ。」「頼むよ――こっちは名僧でも何でもないが、爺さん、爺さんを……導きの山の神と思うから。」「はて、勿体もねえ、とんだことを言うなっ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・が、『風流仏』を読んだ時は読終って暫らくは恍然として珠運と一緒に五色の雲の中に漂うているような心地がした。アレほど我を忘れて夢幻にするような心地のしたのはその後にない。短篇ではあるが、世界の大文学に入るべきものだ。 露伴について語るべき・・・ 内田魯庵 「露伴の出世咄」
・・・その簡単な有り様は、太古の移住民族のごとく、また風に漂う浮き草にも似て、今日は、東へ、明日は、南へと、いうふうでありました。信吉はそれを見ると、一種の哀愁を感ずるとともに、「もっとにぎやかな町があるのだろう。いってみたいものだな。」と、思っ・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・ ふと、湯気のにおいが漂うて来た。光っていた木犀の香が消された。 風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・しかし、この色は絵画的な定着を目的とせず、音楽的な拡大性に漂うて行くものでなければならず、不安と混乱と複雑の渦中にある人間を無理に単純化するための既成のモラルやヒューマニズムの額縁は、かえって人間冒涜であり、この日常性の額縁をたたきこわすた・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
出典:青空文庫