・・・ ひたひたと木の葉から滴る音して、汲かえし、掬びかえた、柄杓の柄を漏る雫が聞える。その暗くなった手水鉢の背後に、古井戸が一つある。……番町で古井戸と言うと、びしょ濡れで血だらけの婦が、皿を持って出そうだけれども、別に仔細はない。……参詣・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇、白衣、白木彫の、み姿の、片扉金具の抜けて、自から開いた廚子から拝されて、誰が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖、裳に紛いつつ、銑吉が参らせた蝋燭の灯に、格天井を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ ――逢いに来た――と報知を聞いて、同じ牛込、北町の友達の家から、番傘を傾け傾け、雪を凌いで帰る途中も、その婦を思うと、鎖した町家の隙間洩る、仄な燈火よりも颯と濃い緋の色を、酒井の屋敷の森越に、ちらちらと浮いつ沈みつ、幻のように視たので・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・媼しずかに顧みて、 やれ、虎狼より漏るが恐しや。 と呟きぬ。雨は柿の実の落つるがごとく、天井なき屋根を漏るなりけり。狼うなだれて去れり、となり。 世の中、米は高価にて、お犬も人の恐れざりしか。明治四十三年九月・十一月・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・ 八口を洩る紅に、腕の白さのちらめくのを、振って揉んで身悶する。 きょろんと立った連の男が、一歩返して、圧えるごとくに、握拳をぬっと突出すと、今度はその顔を屈み腰に仰向いて見て、それにも、したたかに笑ったが、またもや目を教授に向けた・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・これ倶楽部の窓より漏るるなり。雲の絶え間には遠き星一つ微かにもれたり。受付の十蔵、卓に臂を置き煙草吹かしつつ外面をながめてありしがわが姿を見るやその片目をみはりて立ちぬ、その鼻よりは煙ゆるやかに出でたり。軽く礼して、わが渡す外套を受け取り、・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・に閃く火花の見事なる、雨降る日は二十ばかりの女何事をかかしましく叫びつ笑いて町の片側より片側へとゆくに傘ささず襟頸を縮め駒下駄つまだてて飛ぶごとに後ろ振り向くさまのおかしき、いずれかこの町もかかる類に漏るべき、ただ東より西へと爪先上がりの勾・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・背をかがめ身を窄めでは入ること叶わざるまで口は狭きに、行くては日の光の洩るる隙もなく真黒にして、まことに人の世の声も風も通わざるべきありさま、吾他が終に眠らん墓穴もかくやと思わるるにぞ、さすがに歩もはかばかしくは進まず。されど今さら入らずし・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である。これを想うと、今さらのように armer Thor の嘆が真実であることを感ずる。・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・お妾はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人燈火のない座敷の置炬燵に肱枕して、折々は隙漏る寒い川風に身顫いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明い賑かな場所がい・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫