・・・っては幽寂を新にする、秋の夜などになると興味に刺激せられて容易に寐ることが出来ない、故に茶趣味あるものに体屈ということはない、極めて細微の事柄にも趣味の刺激を受くるのであるから、内心当に活動して居る、漫然昼寝するなどということは、茶趣味の人・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・死の事大ちょうことは、太古より知恵ある人が建てた一種の案山子である、地獄・極楽の簑笠つけて、愛着・妄執の弓矢放さぬ姿は甚だ物々しげである、漫然遠く之を望めば誠とに意味ありげであるが、近づいて仔細に之を看れば何でもないのである。 私は必し・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・わたくしは行先の当てもなく漫然散策していた途上であった。二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携えてこの店に立寄られたのだと云う。店の主人は既にわたくしとは相識の間である。偶然の会合に興を得て店頭の言談・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理窟の立たない漫然としたものではないのです。いったい何々主義という事は私のあまり好まない・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・金玉もただならざる貴重の身にして自らこれを汚し、一点の汚穢は終身の弱点となり、もはや諸々の私徳に注意するの穎敏を失い、あたかも精神の痲痺を催してまた私権を衛るの気力もなく、漫然世と推移りて、道理上よりいえば人事の末とも名づくべき政事政談に熱・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・文学と読者大衆との関係はしかく密接なのであるが、従来のブルジョア文学に於ては漫然読者という表現の中に込めて考えられていた大衆というものの存在が、昨今作家にとって特別に見直され、しかもその見方に幾つかの異った傾向が見えるのは見落すべからざる点・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
・・・一人一人のプロレタリア作家がブルジョア作家と同じような切りはなされ方で観られ、あの人はああ行動し、この人はこう生きている、という現象だけ漫然眺められている。プロレタリア文学者として云々という我にもひとにも通じる目安が、ぼけている。文学の仕事・・・ 宮本百合子 「プロ文学の中間報告」
・・・わたくしは紙を展べて漫然空車と題した。題しおわってなんと読もうかと思った。音読すれば耳に聴いて何事ともわきまえがたい。しからばからぐるまと訓もうか。これはいかにもなつかしくないことばである。そのうえ軽そうに感ぜられる。やせた男が躁急に挽いて・・・ 森鴎外 「空車」
出典:青空文庫