・・・纒いしは袷一枚、裾は短かく襤褸下がり濡れしままわずかに脛を隠せり。腋よりは蟋蟀の足めきたる肱現われつ、わなわなと戦慄いつつゆけり。この時またかなたより来かかりしは源叔父なり。二人は辻の真中にて出遇いぬ。源叔父はその丸き目みはりて乞食を見たり・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・願わくば別離を経験したことによって、前にも書いたようにその感情の質が深くそして濡れてくるような別離をしたいものである。愛する者の別離は胎盤が子宮から離れるように大きな傷をその人の霊魂に与えるものである。したがってその際の心遣いは慎重で思いや・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・第一あんなに濡れていたので、重くなっているべきはずだが、それがちっとも水が浸みていないようにその時も思ったが、今も同じく軽い。だからこれは全く水が浸みないように工夫がしてあるとしか思われない。それから節廻りの良いことは無類。そうして蛇口の処・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ 源吉はズブ濡れの身体をすっかりロープで縛られていた。そしてその綱の端が棒頭の乗っている馬につながれていた。馬が少し早くなると逃亡者はでんぐり返って、そのまま石ころだらけの山途を引きずられた。半纒が破れて、額や頬から血が出ていた。その血・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・国の方で留守居するおげんが朝夕の友と言えば、旦那の置いて行った机、旦那の置いて行った部屋、旦那のことを思い二人の子のことを思えば濡れない晩はなかったような冷たい閨の枕―― 回想は又、広い台所の炉辺の方へもおげんの心を連れて行って見せた。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・路面の雪は溶けかけたままあやうく薄く積っていて、ふたりの下駄をびしょ濡れにした。宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。 ・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・硝子窓の外は風雨吹暴れて、山吹の花の徒らに濡れたるなど、歌にでもしたいと思う。 躑躅は晩春の花というよりも初夏の花である。赤いのも白いのも好い。ある寺の裏庭に、大きな白躑躅があって、それが為めに暗い室が明るく感じられたのを思い出す。・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・道端の熊笹が雨に濡れているのが目に沁みるほど美しい。どこかの大きな庭園を歩いているような気もする。有名な河童橋は河風が寒く、穂高の山塊はすっかり雨雲に隠されて姿を見せない。この橋の両側だけに人間の香いがするが、そこから六百山の麓に沿うて二十・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 濡れた水着のままでよく真砂座の立見をした事があった。永代の橋の上で巡査に咎められた結果、散々に悪口をついて捕えられるなら捕えて見ろといいながら四、五人一度に橋の欄干から真逆様になって水中へ飛込み、暫くして四、五間も先きの水面にぽっくり・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼き夕を草深き原のみ行けば、馬の蹄は露に濡れたり。――二人は一言も交わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲ぶ。風渡る梢もなければ馬の沓の地を鳴らす音のみ高し・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫