・・・間の十畳で、本床附、畳は滑るほど新らしく、襖天井は輝くばかり、誰の筆とも知らず、薬草を銜えた神農様の画像の一軸、これを床の間の正面に掛けて、花は磯馴、あすこいらは遠州が流行りまする処で、亭主の好きな赤烏帽子、行儀を崩さず生かっている。 ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・結局は甲冑の如く床の間に飾られ、弓術の如く食後の腹ごなしに翫ばれ、烏帽子直垂の如く虫干に昔しを偲ぶ種子となる外はない。津浪の如くに押寄せる外来思想は如何なる高い防波堤をも越して日一日も休みなく古い日本の因襲の寸を削り尺を崩して新らしい文明を・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・ ろうそくの火は、赤い、小さな烏帽子のように、いくつもいくつも点っていたけれど、風に吹かれて、べつに揺らぎもしませんでした。 太郎は、気味悪くなってきて、戸を閉めて内へ入ると、床の中にもぐり込んでしまいました。 ふと太郎は、目を・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・ で、諸大名ら人の執成しで、将軍義澄の叔母の縁づいている太政大臣九条政基の子を養子に貰って元服させ、将軍が烏帽子親になって、その名の一字を受けさせ、源九郎澄之とならせた。 澄之は出た家も好し、上品の若者だったから、人も好い若君と喜び・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 烏帽子山麓に寄った方から通って来る泉が、田中で汽車に乗るか、又は途次写生をしながら小諸まで歩くかして、一週に一二度ずつ塾へ顔を出す日は、まだそれでも高瀬を相手に話し込んで行く。この画家は欧羅巴を漫遊して帰ると間もなく眺望の好い故郷・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ 烏帽子直垂とでもいったような服装をした楽人達が色々の楽器をもって出て来て、あぐらをかいて居ならんだ。昔明治音楽界などの演奏会で見覚えのある楽人達の顔を認める事が出来たが、服装があまりにちがっているので不思議な気がするのであった。 ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 運慶は頭に小さい烏帽子のようなものを乗せて、素袍だか何だかわからない大きな袖を背中で括っている。その様子がいかにも古くさい。わいわい云ってる見物人とはまるで釣り合が取れないようである。自分はどうして今時分まで運慶が生きているのかなと思・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・河内路や東風吹き送る巫が袖片町にさらさ染るや春の風春水や四条五条の橋の下梅散るや螺鈿こぼるゝ卓の上玉人の座右に開く椿かな梨の花月に書読む女あり閉帳の錦垂れたり春の夕折釘に烏帽子掛けたり春の宿 ある人に句を・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 籠堂に寝て、あくる朝目がさめると、直衣に烏帽子を着て指貫をはいた老人が、枕もとに立っていて言った。「お前は誰の子じゃ。何か大切な物を持っているなら、どうぞおれに見せてくれい。おれは娘の病気の平癒を祈るために、ゆうべここに参籠した。する・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫