・・・ちょうど見舞いに来合せていた、この若い呉服屋の主人は、短い口髭に縁無しの眼鏡と云う、むしろ弁護士か会社員にふさわしい服装の持ち主だった。慎太郎はこう云う彼等の会話に、妙な歯痒さを感じながら、剛情に一人黙っていた。 しかし戸沢と云う出入り・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸すどころか、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。 そこで彼・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・ 仁右衛門がこの農場に這入った翌朝早く、与十の妻は袷一枚にぼろぼろの袖無しを着て、井戸――といっても味噌樽を埋めたのに赤あかさびの浮いた上層水が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯を洗っていると・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 天は昏こんぼうとして睡り、海は寂寞として声無し。 甲板の上は一時頗る喧擾を極めたりき。乗客は各々生命を気遣いしなり。されども渠等は未だ風も荒まず、波も暴れざる当座に慰められて、坐臥行住思い思いに、雲を観るもあり、水を眺むるもあり、・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・て 当年未了の因を補ひ得たり 犬川荘助忠胆義肝匹儔稀なり 誰か知らん奴隷それ名流なるを 蕩郎枉げて贈る同心の結 嬌客俄に怨首讎となる 刀下冤を呑んで空しく死を待つ 獄中の計愁を消すべき無し 法場若し諸人の救ひを欠かば 争でか・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・……どっちだかそれは解らんが、とにかく相互の熱情熱愛に人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる、」とあるはこの瞬間の心持をいったもんだ。 この犬が或る日、二葉亭が出勤した留守中、お客が来て格子を排けた途端に飛出し、何処へか逃げてしまっ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・隠れたるものにして顕われざるは無しとの強き教訓。十二章二節より五節まで、明白に来世的である。キリストの再臨に関する警告二つ。同十二章三十五節以下四十八節まで。序に「小き群よ懼るる勿れ」との慰安に富める三十二節、三十三節に注意せよ。・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・ 断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台購い、長袖の法被に長股引、黒い饅頭笠といういでたちで、南地溝の側の俥夫の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・瞳を勝山通のアパートまで送って行き、アパートの入口でお帰りと言われて、すごすご帰る道すうどんをたべ、殆んど一文無しになって、下味原の家まで歩いて帰った。二人の雇人は薄暗い電燈の下で、浮かぬ顔をして公設市場の広告チラシの活字を拾っていた。赤玉・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・それは、鼻先きで飯櫃の蓋を突き落しかけていた家無し猫だった。寒さに、おしかが大儀がって追いに行かずにいると猫は再び蓋をごとごと動かした。「くそっ! 飯を喰いに来やがった!」おしかは云って追っかけた。猫は人が来るのを見ると、急に土間にとび・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
出典:青空文庫